Role o/r Choice (「英雄へ至る物語、偽りの英雄譚」からの改題です)
吾妻巧
第一章 英雄に至る物語、偽りの英雄譚
第1話 冷たい雨、始まりの日
――これは英雄へ至る物語。
冷たい雨が降っていた。大きな雨粒は森に広がる枝を打ち続けている。空は漆黒に染まっている。元より光の当たらない森の奥底は、深い闇に沈んでいる。増水した沢の水流は、怒り狂ったかのような轟音を放っていた。
そこに、全てを引き裂くような、少年の悲鳴にも似た叫び声が響いていた。
「わああっああああああああああ!!」
少年は喉を潰さんばかりに全身を使って叫びながら、剣をがむしゃらに振っていた。刃渡りは長い大人用の長剣であり、十歳を超えた程度の子供が持つには誰が見てもそれは不釣り合いとしか言い様のないものだった。
構えも剣筋も何もかもが無茶苦茶だった。少年の叫びと合わせれば、彼が狂気に染まってしまったかのようにも見えただろう。
少年には相対するモノがいた。
黒い世界にあって、なお黒く塗りつぶしたがごとき存在。
子供が泥をそのまま人型に固めたがごとき歪なもの。
目鼻口はかろうじて存在しているが、不揃いのそれは醜悪を具現化したかのようでもある。決して人とは交わることのない、瘴気から産まれるもの――魔物であった。
「ああああああああああああああああッ!!」
少年は止めてしまえばそれが死に繋がると言わんばかりに、魔物に対し剣を振るい、叫び続ける。
冷たい雨が降る冬である。それでいて、少年の身体からは熱気が溢れていた。不格好に描かれる剣線は、まるで炎が揺らめくようでもあった。
気迫に押されたのか、魔物は僅かにだが後ずさりをした。
何もかもが必死である少年に、それはほとんど知覚できていなかった。しかし、結果的にそれは好機となった。離れた距離を無意識的に縮めようと踏み込み、力任せに振るった剣は魔物を捉えていた。
魔物から耳を塞ぎたくなるような金切り声が上がる。だが、少年は止まらない。
魔物を薙いだ剣をそのまま体重を込めて振り抜く。弾け飛んだ魔物には一瞥もくれずもう一歩踏み込み、残る他の魔物へ向けて剣を振るう。
「ああああああああっ、があぁっッ! ああッ!」
喉が裂けたのか、少年の叫びに血が混じった。少年は気にも留めない。雨もその痕跡をすぐさま洗い流した。狂気に満ちた戦いが継続される。
――死にたくない。
――死なせたくない。
たったそれだけの想いを、その幼い身体を動かす原動力として。
彼の背後には一人の少女がいた。
年齢は少年とほぼ同じに見える。彼女は力なく座り込んでいた。
少女の黒曜石のような瞳は虚ろで、まるで何も映していない。だが、その視線の向きだけは、魔物に負けんばかりの形相と声を上げ続ける少年へ注がれているようだった。
「うわあああああああああアアアアッ!!」
少年の剣が再び魔物に命中する。
剣技も何もなく、その刃の鋭さと剣の重さだけで強引に断ち切る。振り抜いた方向へ魔物は転がると、醜い断末魔を上げた。雨に溶かされる泥のように体を崩し、消滅した。
魔物に仲間意識があったのかは分からない。ただ、同族をいくつも失った魔物が、本能的に命の危険を悟るに至るのは自然なことだった。後退りし、明確にその戦線を下げ始めていた。
少年がそれに気づく余裕がないのは変わらない。変わらず踏み込もうとする。
だが、体力の限界は近かった。前に出した足はふらつき、振り下ろした剣の重さすら支え切れていなかった。剣は沢に転がる石を強打し、甲高い音を立てた。
しかし、それが結果的に魔物の恐怖心を煽ったのか、魔物は背中を見せるのを厭わず、一目散に逃げ出した。少年に追撃する余力など、もうなかった。剣を岩に叩きつけた格好のまま、森の深い闇へと消えていく魔物を、目だけで追っていた。
「は、あ、ぁ――――ぁ――」
途切れ途切れの息を少年が吐く。震えが限界を迎えていた手が剣を離した。転がった剣が、低い音を立てた。
少年はようやく、そこで後ろを見た。
少女もまた、少年を虚ろな目で見ていた。
隠しきれない恐怖は、まだこびり付いていた。手は神経が壊れたかのように震えていた。足にはもう感覚すら残っていない。
それでも、少年は少女の元へゆっくりと歩み寄り、その手を差し出した。そして、声をかける。
「助けに来たよ。もう、大丈夫だよ」
まるで自分こそがその言葉をかけて貰うべき子供のような表情と、震える声で。
――これは英雄へ至る物語。
――そう遠くない未来に紡がれる、偽りの英雄譚。
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