七十二 彫り物

 火消しが彫り物を入れるのは、顔を焼かれて死んでも誰だかわかるようにするためだそうです。

 ところが、その若い火消しは、

「女房と生まれてくる子供を悲しませないために、我が身を守護する彫り物を入れてくれ」

 と私に言いましたから、守護神となる彫り物の下絵を何枚か見せました。

 火消しはそれらをじっくり眺めて、火炎を背負って龍の巻きつく剣を持った不動明王の絵を手にしました。龍は水を司り炎は不動明王の力を顕示しています。水と炎という、一見、相容れない二つを背中に彫り込む。

「護ってくれのは二度、三度目はないよ」

 それでいいと火消しが言いましたから、私はそいつの背中一面、肩から肘、太腿から膝にかけて丁寧に彫りつけてやりました。

 それから二年ほど経ったころでしたか、その火消しが訪ねてきたときには、髪が雪のように白くなって、顔には版木に深く刻み込んだような皺が幾筋もついていました。

「おかげさまで、先日、命を助けられました」

 火消しは礼を言って、持参した酒を差し出しました。

 それを酌み交わしながら聞きましたら、取り残された子供を助けに入って落ちてきた天井に潰されそうになったとき、不動明王がそれを剣で断ち割って逃げ道を開いてくれたということでした。

「子供も無事でそれはよかったんですが、まさか、こんなになるとは思いもしなかったもんで……」

 白髪に手を当てて笑ったところで私が背中を見せてくれと言いましたら、火消しは快く下帯一つの裸になって見せてくれました。

 身体には火傷一つ負ってはいませんが、火炎とともに剣を握った不動明王の姿は消えて、龍だけがそこに残っていました。

「あと、もう一度、龍神が護ってくださる」

 その言葉が終わらぬ前に半鐘が鳴りましたから、火消しはすぐさま飛び出していきました。

 それから一年も経たないうちに、火消しはかなり老いさらばえてやってきました。

 今度は年寄りを助けに火の中に飛び込んだそうで、火炎に巻かれて立ち往生したとたんに現れた龍神が水を吐いて救ってくれたということでした。

 その火消しの女房が、まだ小さい子供の手を引いて私を訪ねましたのは、その半年後でした。火消しは今度も年寄りを助けに火の中に飛び込んだそうですが、三度目はありません。

「あの人は他人の命を護るために彫り物の力を使っちまったんですよ」

 そう言って涙をこぼした母親に子供がしがみついて泣き始めてから、

「ごめんなさい。わたしが子供を護っていきます」

 涙を拭いて女房はきっぱり言って立ち去る際に振り向くと、

「でも、彫り物には頼りません」

 かすかな笑みを残して帰っていきました。

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