七十三 蠅男

 旅先で渡し船に乗ったとき、わしのうしろに座っていた男の気配が急に消えたので振り返ったら、男の姿はなく大きな蠅が一匹、船端に留まっていた。

 とたんに、船底が何かにぶつかったのか、下から突き上げるような衝撃と鈍い音が響いて船は大きく傾いたかと見る間にひっくり返ってしまった。それが川の中ほどで、投げ出された客の大半はひっくり返った船にしがみついて助けを待つばかりだった。

 水の中を潜って向こう岸に渡って助けを呼ぶ人々の声を背中にわしが歩き始めたら、騒いでいる野次馬の中にさっき船から消えたはずの男が目についた。

「無事でしたか」

 声をかけたら、男はちょっと驚いた顔を見せて、

「ああ、あんたも……」

 と言った。

 それからその男と道連れになって、その晩、宿で酒を飲みながら、

「信じてもらえないならそれでもいいが……」

 そう前置きをして、

「三年前に旅から帰って家に入ろうとしたら、中から男の声が聞こえて女房の笑い声が聞こえた。窓から覗いてみると、銚子の乗った膳を前に、男が女房の手を握っていた。頭に血が上って家に飛び込んだら、蠅になっていたんだ」

 言って窺うようにこちらを見た。

「それで、間男は誰だったんですか?」

 先を促すと、男は笑少しって、

「相手は地回りで、飛び込んだところでこっちが半殺しの目に合っていた」

 と答えて、

「それからこの身が危うくなる前に、蠅になって飛んでいくようになって……」

 淋しげに言って、酒をあおった。

「どうして蠅になるのかわからんが、それで危難から逃れられるならありがたいと思うようにはしていたけれど、近頃はいっそ蠅のままでいたほうがいいかと思うようになってね」

 と手酌でまたあおって、

「ところで、船がひっくり返ってもすぐに岸に泳ぎつけるなんて、あんたも只者じゃないね」

 こっちに水を向けた。

 わしはそれには答えず、

「どうしてずっと蠅なんかでいたいと思うんですか?」

 そう尋ねたら、

「どうも人に好かれねえ性分に生まれついているらしく、何をやってもうまくいかねえ。間男されたあげく女房にも逃げられたほどだ。それならいっそ、人にも忌み嫌われる蠅でいるほうが気楽でいいやって、思ってね……」

 言ってまた杯をあおるその男の手を払いのけてわしが正体を見せてやったら、男はたちまち蠅になって飛び上がった。

 わしはそれを左手で捕まえて、その体に糸を結わえつけてやった。そうしてわしが糸の先をずっと持っていたら、蠅はいくら飛んでも逃げられず男に戻ることができなくなって冬になって寒くなったら死んでしまった。

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