六十四 夜釣り

 船頭をしていたおり、夜目が利くのを買われて夜釣りの客の船をよく漕いでいた。

 これから話すのは、そんな私を夜釣りで使ってくれていた初老の男の話だ。

 その男は役目を退いた隠居で、何でもざっっくばらんに話してはいつも上機嫌に糸を垂れていた。

 それは、少し風があって肌寒さを感じる夜だった。

 いつもと様子が違うように見えた隠居が、珍しくまったく魚信のないまま黒い油のような川面を凝視して、

「今日は、竹馬の友の命日でな」

 唐突に言った。

 私が、へい、と返したら、

「昨日、その竹馬の友から奪った妻が亡くなった」

 と続けた。

 私が何も言えずにいたら、

「もう三十年も昔、その竹馬の友と二人で悪さをしているうちに、双方の親同士が申し合わせて我々二人を勘当した。それで転がり込んだ知り合いの家の娘と友達が好き合ったのはいいが、勘当された穀潰しに娘をくれてやろうという親などいない。それで二人は駆け落ちをしようということになってね……」

 そこまで話して隠居は棹を上げた。でも、隠居は針先を確かめもせずに暗い川面にまたそれを投げ入れた。

 私は闇に身を溶かしたまま何も言わない。

「示し合わせて二人が出ていこうという日に、私は竹馬の友の首を絞めて川に投げ込み、娘にはあいつは恐くなって一人で逃げたと告げた」

 そのとき、川面で何か跳ねた。

「そして、歎く娘を慰め労りときをかけてわしの妻にした。久しく連れ添ってくれた妻のおかげで、わしはこうして夜釣りを楽しむ身分になったが、首を絞めたときのあいつの形相が脳裏から離れることはなかった……」

 闇の中、隠居は私に目を向けて、

「亡くなった妻が、あの世であいつと会ったらきっとほんとうのことを知るだろうな……」

 と言った。

 どう答えたものか思案に暮れていたら、隠居の棹に魚信があった。

 大物がかかったのか、隠居が糸に引かれるのを助けようと私が手を貸そうとしたとたん何か見えたか、隠居は悲鳴を上げて棹を投げ出すと船底に尻餅をついた。 

「こんな夜に殺生は禁物です。早じまいにしますよ」

 言って私が櫓を漕ぎ出したら、よろよろと一度立ち上がって隠居はそのまま棒のように倒れて川に落ちた。

 すぐに飛び込み隠居を探したら、真っ黒な人影が隠居の首を絞めながら川底の泥の中に沈んでいくのが見えて、その泥に半分体を埋めた女がぼんやり立って二人を見ていた。

 

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