六十三 おしろいべったり
担ぎの蕎麦屋をしておりましたあっしが商売の前に寄ってちょいと腹ごしらえをしておりました茶店で働いていた娘は、器量はよくありませんでしたが、笑顔を絶やさない女でした。
ときどき娘も蕎麦を食べに来てくれて、そのうち男を連れて立ち寄るようになりました。蕎麦ができ上がるわずかな間にも、娘は男の着物の襟を直したり塵を払ったりしていましたけれど、しばらくして茶店で働く娘の姿を見かけなくなってから蕎麦を食べにくることもなくなりました。
もちろん、娘と一緒にいた男も蕎麦を食べにくることもありませんでしたが、その男が近くを通りかかるのを見かけたときに、
「一杯いかがですか」
声をかけましたら、じゃあ、と寄ってくれまして、蕎麦を待ちながら、
「別れてね……」
ぽつりとこぼしましたから、そうなんですか、とあっしが箸を添えて蕎麦を出しますと,甲斐甲斐しく気を使ってくれる娘をうるさく思うようになった、と話しました。
男と女が互いに気遣うのは当たり前のことだと思いましたが、あっしが黙っておりましたら、
「どうも、嫌われたくないって思いがきつかったんじゃねえかなって、近頃、思うようになってね」
男は独り言のように言って、
「今、どうしてるのかな……」
あっしに視線を投げました。
それから、十年は経っておりましたでしょうか、ひどく寒い夜でした。
他に用事があって歩いておりましたら、夜鷹に声をかけられました。おしろいをべったり塗りつけておりましたけれど、声であの茶店の娘だとわかりました。そんなあっしの様子に女も気づいたのか、あっ、と小さな声をあげるとそのまま走り去っていきました。
その娘が最後にあっしの蕎麦屋にやってきたのは、翌年暮れの夜でした。
小雪がちらつき始めて、もう店じまいにしようかと片付け始めたあっしの足下に、いつのまにか小さく蹲っておりました。
「どうかしたのかい?」
声をかけましたら、おしろいを厚く塗った顔を向けて、茶店で働いていたころのように微笑みました。目も鼻も口もない真っ白な顔で……
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