六十 抜け首
寝苦しい夏の未明に私の家の戸を激しく叩く者がありまして開けてみましたら、髪を振り乱した女の首が宙に浮いておりました。
いわゆる抜け首でございます。
それが以前近くに住んでおりました女だと気がつきまして、
「どうした」
と声をかけましたら、首は切羽詰まった形相で何か訴えていましたけれど、抜け首は声を出せませんから、
「急ぐんだろ」
私が言いましたら、首は一つ頷いて、どんどん宙を飛んでいきます。
私はそのまま首を追いかけましたが、相手はこっちが二本の足で道を走ることを忘れているかのように家々の屋根を越えていきます。月明かりに照らされたそれを私は見失わないように木戸を跳び越え屋根に飛び上がっては飛び降りてついていきましたら、しもた屋風の家の裏口で止まりました。
戸の開け閉めができる首はありません。私が戸を開けてやると、首はすぐさま中に入って奥の間に寝ている女の身体に戻ろうとしますが畳の上に落ちて果たせません。
もう夜明けが近い。朝の光が射し込む前に身体に戻らないと抜け首は死んでしまうと言われていますから、女はよほど苦しいはずです。けれども、ここまで来たらもうあとは身体に戻るだけです。
ところが戻れず畳に落ちる首を見ておかしいと思って私が女の身体を確かめましたら、抜けた首のあとに濡れた紙が貼りつけてありました。なるほど、これではどうしようもないはずで、私がすぐにその濡れ紙を取り除いてやりましたら、女の首は無事に身体に還ることができました。
朝日が昇って女が落ちついたところで事情を聞きましたら、
「恥ずかしい話ですけど、あたしを振った男が憎くって、気がついたら夜中に首が抜けてそれでその男の家に飛んでいったんだよ。毎晩通って男の寝顔なんかを見ていたら、そのうち男がふいと目覚めて驚いたのが面白くって、次からは起こして脅しているうちに男の使いというのがやってきていろいろ言うようになった。もちろん、あたしは知らぬ存ぜぬでとおして夜になったら脅かしに行っていたんだ。それが、今夜行ったらそいつはへらへら笑って待っていたから、これは変だと思って帰ってみると、少し開けておいたはずの裏口が閉まっている。でも首だけじゃどうにもならない。どうしようかと困っているときにあんたの顔が浮かんでそれで飛んでいったら、あんんたは驚きもしないであたしを助けてくれた……」
女は声を詰まらせて言いながら、最後は泣き出してしまいました。
それからしばらくして、女の家を訪ねてきた者がありましたので、私が応対に出ましたら、相手は少し驚いたような顔を見せました。それでも、女がいるかしつこくそいつが確かめますので、奥の間に向かって私が呼びましたら女は気丈な声を返しました。
不審を隠すことなくそいつは帰りましたけれども、このままここにいない方がいいと思いましたので、私が、
「今夜は俺のうちから首を飛ばすといい」
と言ってやりましたら、女は涙を拭きながら微笑むばかりで何も言いませんでした。
翌日、訪ねましたときには女はどこかへ引っ越していませんでした。
それから私のところへも飛んできませんから、首を抜かさずに何とかやっているんだろうと思うことにしています。
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