六十一 世間話

 わたしが飯炊きに雇われておりましたお武家は、いわゆる貧乏御家人でした。

 ところが、その家に生まれました娘が幼少からすこぶる賢うございまして、しばしば賢しらな振る舞いに及ぶことがございました。二親は、子供のお前にはまだわからないかもしれないけれど、と前置きをして、

「よいか、武家とは言え、武士の娘のお前がいて世間があるのではない。世間があってお前がいるのだ。それを忘れて利口な己を見せて世の中を渡ると世間は生きづらくなる。ましてや女の身で出過ぎたことは控えなければならない」

 と娘に言い聞かせていました。と言って、何が賢しらかわかりませんから、相手が子供でも大人でも莫迦な考えには口を挟み間違っていることは正そうといたします。あるときには賢い子だとほめられはしますが、世間に与する人の中には、それが気に入らないという者も少なくありません。

 そのうち、

「じゃあ、世間の間尺に合わなければ世間にいられないということでございましょう」

 と親に反駁するようになりましたが、それでも娘は同じ御家人の家の嫁となりまして、男児を一人授かりました。けれども、それから半年ほどして、娘は乳飲み子を抱いて勝手に戻ってまいりました。去り状を渡されたわけではありません。家人の隙を盗んで着の身着のままに出てきて、そのまま実家に戻って二親にまみえましてもすぐに連れ戻されることはわかっておりましたから、娘は家の外で通りすがりの人に頼んでわたしを呼び出すと匿ってくれるように言いました。

「とんでもない。こんな飯炊きに何をおっしゃいますか」

 一度はお断りしましたが、

「お前は世間に流される者ではあるまい」

 そう言われましては放ってはおけません。わたしは娘を物陰に引き入れて辺りに誰もいないのを確かめると、たまたま持っておりました風呂敷、ただの風呂敷ではありません、元は天狗の用いた風呂敷を娘と乳飲み子にかぶせて覆い隠しました。

「しばらくのご辛抱です。わたしがもういいと申しますまで、このまま動かないでください」

 そう言って戻りますと、さっそく婚家から使いが来ておりまして、娘が乳飲み子とともに戻っていないか尋ねられました。

 結句、娘と乳飲み子は行方知れずと決まりまして、密かにわたしがお二人のお世話をいたしましたけれど、子供を抱えて娘が世間で生きられる術はありませんでした……

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