五十八 人虎

 私は獄舎の番人をしていた。

 その獄舎に、人心を惑わした罪でつながれた者があった。

 その者には死罪が言い渡されていたが、牢内にあって番人である私にも人倫を説いた。

「いかなる大義があっても人の命を奪うは人の道に外れることなり」

 人でない私に人の道を説く罪人が人の道から外れた者から人心を乱す輩と断じられて命を奪われる……

 そんなことを思いながら、いよいよ刑が執行されるという日の朝、まだ曙光が届かぬ獄舎の一隅に一頭の虎がうずくまっているのに私は気づいた。

「虎に変じたのか?」

 私が格子越しに尋ねると、

「驚かぬのか?」

 虎はむしろ私の応対に驚いて声を発した。

「何か術を遣うたか?」

「さにあらず。我は元より虎である」

 問うていくと、

「前世、見せ物の虎としてこの国に来て果て、のちに人に転生したが、おりおり虎に変じる。幸いこれまで虎の姿を誰に知られることもなく生きてこられたのは、人として世にあろうと務めたからであろう。なれど、己の思う人の道が間違いであると断じられて死をたまうのなら、もはや人として生きる甲斐はない。それならいっそ再び虎として生きようか、と昨夜ふと思って今朝目覚めたら、虎に還っていた」

 と語った。

 それへ朝日が射し込んで、別の番人が虎を見て驚いたから役人どもが集まって騒ぎが大きくなった。

 獄舎に罪人の姿がなく、そこに獰猛な虎が歩き回っている。

 虎は咆哮するばかりで、もはや人語を発しない。

 とにかく虎を何とかしなければならないが、獄舎から出してしまうと虎は暴れて逃げてしまう……

 そんな評定を尻目に私は槍を持ってきて格子の間から虎を突いた。槍は虎の左の首筋に刺さってわずかに血を滲ませる。一度大きく跳ね上がってその槍を首から外した虎であったが、そのままそれへ倒れて動かない。

 役人どもが息を飲んで見守る中、槍を捨てて私が鍵を開けて中に入ったら、虎はむくりと起き上がって私に襲いかかった。私が左腕を噛ませて体ごと左右に振ると、虎は目の前に開いた牢の出入り口から飛び出してたちまちそこにいた役人の一人に飛びかかった。その役人が悲鳴を上げて気を失うと周りにいた者どもは算を乱して逃げたから、虎はのっそり歩きながら遠巻きに見る役人どもを睥睨し一声吼えると私を一度振り返り、朝日に向かって跳ね飛ぶように姿を消した。

 役人どもは虎を追うこともせず、罪人を病死として始末をつけた。

 虎がまた人の姿になって私に礼を述べにきたのは、十年後であった。

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