五十六 古井戸
井戸掘り職人の夏場の仕事は井戸替えで、年に一度、あっしら職人が中に入って井戸を浚って洗います。
ある年、秋口に井戸替えを頼まれたことがありました。
毎年井戸替えに呼んでくれる御家人が、わざわざあっしを座敷に上げて、絵師をしている三男の家の井戸を浚ってくれと言いました。
時節外れとは言え、次の井戸掘りまでにはまだ間もあるときでしたから心安く引き受けましたら、御家人はあっしの前に何枚か絵を広げて見せました。
一枚は、青い鱗の生えた細長い手が四方から何十本も伸びて草に埋もれた古井戸の縁に指をかけているという絵面で、別の一枚は、古井戸から血が噴き上がっている、他の一枚には、古井戸の釣瓶がざんばら髪の女の首になっていて哀しげな目を宙に投げているという絵柄でした。
「冷や飯食いの身から世に出ようと絵師になった三男がその家を借りたのが半年ほど前になる。親のわしから言うのもなんだが、精緻な絵を描いて、これは後の世に名を残すであろうと思うほどである。ところが、その家に移ってから描く絵がこのようなものばかりに変わってしまって、当人に聞けば、他の絵師とは違った絵を描かねば名を残すことなどとうていかなわぬ、と申す。と言って、その容貌まで変わってしまっては親としてそのままにもしておけぬので、祈祷なども試みようとしたが、当人が頑としてこれを受けつけぬ。さてどうしたものか思い倦ねながらふとこれらの絵を見て、井戸に何かあるのではないか、と思いついたゆえ、井戸替えを口実に怪しいところがないか確かめてもらおうと思うたのじゃ」
と御家人は言いました。
それで、もう一人、懇意にしている職人に声をかけて出かけていきましたら、出てきた主、つまりはその御家人の三男が何かに憑かれているらしいことは一目でわかりました。
ただ、こっちはそんあことはおくびにも出さず、勝手口の脇にある井戸を丁寧に浚いました。けれども、そこに怪しいものはなく、水は澄んで清らかでした。
それを御家人に伝えまして翌年、また井戸替えに伺いましたときに、その三男が帰っておりましたのでこちらから声をかけましたら、数日のうちに別の家に引っ越すことにしたと言います。
あっしもその手伝いにまいりまして、そのときにはじめて庭の隅にもう一つ古井戸があるのを見つけました。草に埋もれて釣瓶には女の髪が何十本もからみついていました。
ああこれだと思って御家人に懇ろに供養して井戸を浚うように申しましたけれど、もう転居したからよい、と一蹴されました。
それ以上どうするという義理もありませんからそのままにしておきましたが、三男は相変わらず古井戸の絵ばかり描いているようでした。
翌年の夏の盛りに三男の行方が知れなくなって、あっしらも一緒に方々探し回りましたけれど見つからず、もしやと思って先に住んでいた家の庭の古井戸を覗きましたら、三男は幾つもの髑髏に埋まって死んでおりました。
その後、三男の残した絵の何枚かは、好事家に高値で売れたそうでした。
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