三十八 棒手振り
私がその力を用いましたのは、顔なじみの棒手振りに頼まれた、そのときだけでした。
いずれは表通りに店を構えたいと子供のころから語っていた若い棒手振りに、同じ長屋に住んでいた幼なじみの女が惚れて、二人は所帯を持ちました。
夫婦になって、近所のおかみさん連中に、魚の焼き加減や煮込み具合いなんぞいろいろ聞かれていた女房の、
「生きのいい魚を仕入れてただ安く売り歩くより、どう料理すればおいしく食べられるか、そんなことも教えたら、きっとみんな喜ぶよ」
そんな言葉から、懇意になった板前に、
「こないだ、お得意さんからこんなことを尋ねられたんですけど、どうにもうまく答えられなくて、恥ずかしい思いをしたんですよ……」
などと、己の弱みをさらけ出すように棒手振りがこぼすと、
「そりゃ、お前、こうすりゃいいんだ」
と板前は気安く教えてくれます。
「なるほど、じゃあ、そのときにこうなりましたら……」
と重ねて尋ねて一通り聞き終えたところで、
「いやあ、腕のいい板前に捌いてもらうあっしの魚も、しあわせもんですよ」
と礼を述べては、教わったことをまた他の御贔屓筋に伝えます。
そうやって、二人力を合わせて働いて、ようよう裏店に小さな店を構えることができましても、
「棒手振りで回っていたころのお客には、やっぱり棒手振りで売りにいくほうが喜ばれるかもしれないね」
女房の言葉に、魚屋は相変わらず棒手振りで魚を届けます。その間、店は女房が切り盛りしておりましたから、繁盛しないはずはありません。
やがて表通りに店を構えて人を使うようになりましても、毎日己が天秤棒を担いで得意先は回ります。店は、女房が差配して評判の魚屋になりますが、女房は亭主を立てて決して出過ぎたことはいたしません。
棒手振りが、回っている客の伝手から私どもにも出入りするようになってしばらく、女房が死病にかかって臥せってしまいました。
「ずっと傍にいてやりてえんですけど、皆さん待っていらっしゃるんだからって、あいつは言うんですよ」
涙をこぼして、
「いい思いなんか一つもさせてやれなかった。せめて死ぬ前に、いい夢を見せてやりたいんですよ……」
と言いましたから、棒手振りの魚を全部買ってやって、他へは売り切れの断わりを入れさせた上で、私は棒手振りの家まで一緒にまいりまして、もう虫の息の女房の枕元に座りました。
そこで、棒手振りが小さな店を出してそれから表通りに大きな店を構えて繁盛している夢を見せてやりましたら、女房はにっこり微笑んで息を引き取りました。
棒手振りは、裏長屋の薄い夜着に仰臥した女房の亡骸を抱いて、いつまでも泣いていました。
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