三十七 成仏

 卒中で死ぬと、しばらく夢の中にいるせいか、死んでもすぐにそれとわからぬままに彷徨っているお方が多いように存じます。

 わたくしが仕えておりました奥方様もそうした御一人で、御身の御葬儀から数日もすると、いつものように殿の御出仕の支度をはじめてお見送りまでなさいます。殿がお帰りになれば、お出迎えになり、お客様があればおもてなしもなさいます。

 でも、当たり前のことですが、誰もそれに気づきません。殿が御出仕されるときには、奥方様に代わってわたくしが御刀をお渡しし、お帰りになってその御刀を受け取りますのも、わたくしでございました。

 奥方様が、早くお気づきになるように、わたくしは他の者と同じように、奥方様はすでにいらっしゃらないという態を通しておりました。

 ただ、そのうち奥方様は御部屋の片隅でぼんやりされるようになりました。

 そして、あるときわたくしに、

「どうして皆はわたくしをのけ者にするのじゃ」

 と問いました。

 それで、このままでは奥方様はいつまでも成仏できないと思いましたから、わたくしは、奥方様に向き直って指をつき、

「奥方様は、先日、卒中にて身罷られております」

 と申し上げました。

 奥方様はたいそう驚かれて、

「からこうておるのか」

 とおっしゃいました。

 わたくしは、仏間にお連れして奥方様の真新しい御位牌をお見せし、卒中で倒れられてからお亡くなりになったときの御様子をお話し申し上げました。

 それでも、奥方様は、信じられぬ、いや、信じとうない、といったお顔をなさって、しばらくわたくしを見つめておられました。

 その御様子に、

「心中、お察し申し上げます。なれど、すでにこの世に奥方様のお身体はなく、わたくしの他に奥方様とこうしてお話できる者はおりませぬ。どうぞ、このことを……」

 そのように申し上げようとするわたくしの言葉を、

「もうよい」

 と奥方様が遮られましたので、わたくしは平伏いたしました。

 すると、

「これからは、もう殿の御側にいることはない、ということか」

 と探るようにおっしゃって、わたくしが顔を上げぬままに、

「さようにございます」

 と答えましたら、

「これからは、殿の御機嫌を損なわぬように気を遣うこともない、ということじゃな」

 晴れ晴れとした明るい声でおっしゃって、思わず顔を上げましたわたくしに、

「最後に頼みがある」

 と奥方様は笑みをお見せになって、

「殿と同じ墓に入りとうない。殿が亡くなるおりには、そちが私を密かにいずれかへ改葬してくれぬか。さもなくば、成仏できぬ」

 とおっしゃいました。

 奥方様は、今は成仏されております。

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