十二 怒り神

 私が茶坊主をしておりましたときに、怒り神に憑かれた者がおりました。

 私と同じ表茶坊主で、主に諸大名の雑事を引き受けておりました。表茶坊主の中には、うまく立ち回って大名に気に入られる者もあれば、また虎の威を借る狐のような輩もおりました。反対に、要領の悪い者は大名から蔑まれ、茶坊主の間でも疎んじられました。

 怒り神に憑かれた茶坊主は、まさに疎まれ蔑まれたあげくに出仕できなくなっておりました。

 私も知らぬ仲ではありませんし、他の茶坊主どもと違って蔑ろにした覚えもありませんでしたから、見舞いに出向きました。そのときは元気そうな顔で迎えてくれはしましたけれど、なんだか目つきが変わっていて、いろいろ不平をこぼじます。

 ただ、そのこぼし方が尋常ではなく、強張った身体をときに震わせ、また不意に拳を握ってこれを振り下ろし、どれほど己が理不尽な扱いを受けたかということを、口汚く吐き出します。

 それで怒り神に憑かれていることが知れましたけれど、我らでも怒り神をどうかすることはできません。

 怒り神に憑かれましたら、不快なことばかりが思い出されて、他のことは念の外に追いやられてしまいます。残っているのは、己のありようが傷つけられた口惜しさばかりです。

 それでも、違うところに身を置いて気持ちが変わることもあります。ですから、茶坊主を辞めて、何か別のことを始めるというのは、悪いことではありません。

 この茶坊主も、私の知らぬうちに辞しておりまして、ばったり出会いましたのが、さる茶会でした。何か粗相があったのか、誰かをひどく叱りつける声でそちらを見ましたら、件の茶坊主がうなだれておりました。

 茶会が果てて少し話をいたしましたら、今は茶道具屋に使われて、こうして茶会の手伝いをしたり茶道具の目利きをしている、ということでした。しかし、そのときの話ようからも、まだ怒り神に憑かれていることは明らかでした。

 最後に巡り会いましたのは、白昼の表通りでした。女の悲鳴が聞こえてそれへ走ると、蓬髪の茶坊主が短刀を若い女の胸に突き立てていました。女の肋に引っかかって短刀が抜けなくなったのか、茶坊主はそのまま女を突き飛ばすと、今度は懐から取り出した匕首で、傍にいて声も出せずに動けなくなった小娘に突きかかりました。

 とっさにその刃をはじき返したのが、どこぞの隠居といった態の小柄な老武士で、これが一喝すると、たちまち茶坊主は匕首で己の喉を突きました。

 私が駆けつけまして茶坊主の名を呼びましたときには、それでもまだ息があって血を噴きながら私を見ましたけれど、その眼にはまだ怒りが残っておりました。

「知り人か」

 一喝した老武士には答えず、

「私は、そなたの茶に心を和ませておりました」

 と告げましたら、茶坊主は匕首で私の喉を目がけて突きました。

 いつもなら、そんなことぐらいで我らの身体に傷あとが残ることはありませんが、このときの傷ばかりは…… このように、喉に残っております。

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