十一 夫婦喧嘩

 我らには、夫婦になるなどということがございませんから、人の世の夫婦というものがどのようなものかは、よくわかりません。

 ただ、裏長屋なんぞに住まいいたしておりますと、それが何となく見えてまいります。

 わたくしが転居いたしました長屋の家の隣に長く住んでいるという夫婦は、御近所から、似たもの夫婦、と呼ばれていました。

 毎日、ささいなことで朝から喧嘩をしておりましたから、はじめは仲が悪いのではないかと思っておりました。

「口答えばかりしやがって、もう我慢ならねえ。おめえみたいな女房、今日限り叩き出してやる!」

 と亭主が怒鳴れば、女房も負けていません。

「ふん、ろくな稼ぎもないくせに酒ばっかりくらって亭主面されたんじゃあ、こっちもやってられないよ。そっちが出ていきやがれ!」

 と罵り合いはしても、ほんとうに亭主が女房を叩き出すでもなく、女房が亭主を追い出すでもありません。

 そのうち、近所から誰かがやってきて、まあまあ、と仲裁に入ります。この仲裁が入りませんと、夫婦喧嘩は止まらないそうで、お長屋の皆さんに伺いましたら、

「あれで、互いに張り合いがあってうまくいってるんだよ」

「そうそう、一緒になったときには、似合いの夫婦だったんだけどね、今じゃあ、似た者夫婦だよ」

「でも、誰かが仲裁に入らないと喧嘩を止めないってところが困りもんだけどさ」

 笑って答えてくださいました。

 ところが、その女房のほうが、正月が明けた寒い朝、心の臓が止まって死んでしまいました。

 亭主はこれでせいせいしたとと強がってはいましたが、四十九日を過ぎたころから、隣家から夫婦喧嘩の声が聞こえてくるようになりました。最初は、亭主の独り言だったようですが、そのうちに女房の声も聞こえてくるようになって、さすがにわたくしが駆けつけましたら、家には亭主しかおりません。薄暗いうちの中で、いつも女房が座っていた辺りに向かって怒っています。

 わたくしが、

「どうかしたんですか」

 と声をかけても、亭主はいっかな気がつきません。どうしたものかと思案にあぐねていましたら、女房の張り合う声も重なって、思わず、

「まあまあ、二人とも、今日はそれぐらいにして……」

 と仲裁に入ってしいましたら、

「ええ、申し訳ありません。こいつがあんまりなんで、つい……」

 と言って頭を下げると、もう亭主の独り言、いえ、夫婦喧嘩の声はしなくなりました。

 昼間、仕事に行っているうちは亭主におかしなところはないようでしたが、家におりますと、一人で夫婦喧嘩を始めます。それにいつのまにか女房の声も聞こえてわたくしが仲裁に入りませんと、やはり喧嘩の声は止みませんでした。

 その年のうちに、亭主も酔って川に落ちて死にました。

 それでも、空き家になった隣からはその夫婦喧嘩の声が聞こえてまいりましたから、いつまでも新しい借り手はつきませんでした。

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