八 小魔大魔

 人というのは勝手なもので、我らを大難に見立てて追儺会などを行うかと思えば、魔除けと称して我らを模したものをお守りにして身につけております。

 寺院の追儺会にまかり出て、

「これを持てば、今年は無病息災……」

 と喧伝しては我らの顔を模したような小さな木彫り、土偶を贖う輩も少なくありません。

 我らは、人に害を及ぼす魔障でもなければ、誰ぞを守護するものでもありません。そんなことは、放っておいても特段に差し支えが生じることでもないので、私も捨て置くつもりでおりました。

 ところが、あるとき、隣家に住まう貧乏な儒学者先生が、

「好事魔多し。されど小魔、大魔を避く」

 などと記した草稿を私に見せて、これを知り合いの版元に持ち込みました。

 こんなもの…… と私は思っておりましたけれども、これが人口に膾炙されるようになって、あちこちからさまざまな輩が隣の儒学者先生の下に寄ってくるようになりました。

 そやつらを傍目に、

「中には怪しからぬ者もおりましょう」

 と私が懸念を口にいたしましたら、

「なればこそ、小魔、大魔を避く、でございます。どのような人にも、魔障は忍び寄ってまいります。いくら払いのけても、またすぐに纏わりついてまいります。それならいっそ、小魔をいくつか傍らに置いておく。すると、それに遮られて大魔は近づくことができなくなる。たとえば、日々のちょっとした困りごとがあるとか、わずらわしき御仁がいるとか、それを己の不幸の一つに数えて遠ざけたのでは、そこにつけ入るようにまた新たな小魔が、さらには大魔が忍び寄る、ということにございます」

 と笑って言いました。

「なるほど、そう考えれば、小さな困りごとの一つや二つに思い煩うこともない……」

 そんな理屈が評判になって、隣の儒学者先生は、裕福に暮らせるようになったようでした。けれども、そうなると疎遠だった兄弟だとか親戚だとか、果てはとっくに縁の切れた昔の友達だとかが出入りするようになります。用は無心に決まっていますが、儒学者先生は、これも小魔と笑顔を見せて応対しておりました。そのうち、長く音信の途絶えていた兄貴が現れ、やがてその友達だと言って、やはり人相のよくない輩が何人も訪れるようになったかと見る間に、隣の儒学者先生の家に住み着いて、無法を働くようになりました。

 さすがにそうなっては先生も、

「小魔、大魔を招く、ですかな……」

 と、私に自嘲して見せましたので、

「小魔大魔、断固打ち払うべし」

 私はそう宣言して、儒学者先生の兄どもを叩き出してやりました。

 それから、

「魔障こそ、守護を招く機縁なり」

 と儒学者先生は宣うようになりました。

 

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