二 山怪

 猟師仲間の男と獲物を携えて、そいつの家の前で別れようとしたら、連れていた犬が激しく吠え始めた。

「こりゃ、得て物でも出たか」

 と言いながら鉄砲をかまえて家の戸を開けて中に入った男だったが、わしが息を一つ吐き出す間合いで、わあっと大声を上げて家から転がり出てきた。

 駆け寄って男の指さした家の中を見ると、暗い中に男の女房が立っている。

 やや斜めに傾げた首から上が朱に染まって、目はあらぬ方を向いて大きく見開いているのに、口元はかすかな笑みを浮かべている。よく見ると、女房の口も頬も両の手も、血に塗れている。その足下に幼子が倒れて動かない。不自然に、首が曲がっている。

 とっさにわしが弾を込めて鉄砲をかまえ、火縄に火をつけようとしたら、

「撃たんでくれ」

 と男が言った。

「お前の女房の姿を借りた化け物だ」

「得て物に誑かされているだけかもしれん」

 懇願するように言うので、わしは空に向かって一発ぶっ放した。もしこれが、怪異なす山の得て物だったら、この一発で女房は正気を取り戻すはずだ。けれども、腰を抜かしたままの男に女房は飛びかかると、その髷を掴み上げて喉に噛みついたから、わしはそいつに鉄砲を投げつけた。力任せに投げつけた鉄砲は、女房の後ろ頭でただの棒のように大きく跳ね返り、それがまだ落ちない間に女房は男を捨てて今度はわしに飛びかかってきた。

 それを正面から受け止めたら、女房はわしの喉笛に噛みついた。けれども我らの身体は人のように脆くない。それでも女房は魚が腐っていくような息を吐きながら、噛みついたままわしから離れない。仕方がないからわしは女房の体を両の腕で締めつけた。背骨と肋の砕ける音が響いてすぐにそいつの力が抜けたので、戒めを解いたら大きく見開いた目も、笑みを浮かべた口もそのままに、女房はそれへくずおれた。

 これで終わりか、と少し拍子抜けしたとたん、犬がわしの背中にとびかかって首筋に噛みついた。女では歯が立たぬから犬に乗り移り、人とは違うその牙で、わしの首を狙ったのだろうけれど、やっぱり我らの身体を食い破ることはできない。

 わしは犬を首からぶらされげたまま熊を捕る仕掛けの檻をその家の裏から探し出すと、犬の喉を左手で掴んで潰してその口を、己の喉から外しそいつを檻の中に放り込んだ。

 こうしておいて側に生き物を近づけなければ、これが何かに取り憑くことも、また何かを喰らうこともできないだろうと思いながら、改めて倒れている猟師仲間に目を向けた。しかし、猟師はすでに死んでいる。

 わしは犬を閉じ込めた仕掛けの檻を山中深く運んで見張った。

 水も飲まずに犬はずっと生きていたけれど、それでも三年経つとさすがに弱ってある朝見る間に骨まで溶けて、取り憑いていたそれの気配がすっかり消えたところで、わしは山を下りた。

 ところが、猟師の喉笛を食い破りその女房の体の骨を砕いて幼い子どもの命までも奪ったのは、行方を眩ましたわしだということになっていて、わしは再び山中に逃れなければならなくなった。

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