一 幽霊だまり

 毎日通かかる崖の道は、通い慣れた俺でもうっかりすると落ちそうになるほど切り立っていて、ときどき旅人が転げ落ちる。多くは連れの者が人を呼びにいって、そんなときには俺も崖下から怪我人を助けるが、運の悪い奴は死んでいる。

 助けた怪我人は、どこか骨を折っていて、その場で血止めをしたり添え木を施したりして麓の医者に連れて行く。死んでいたら、そこから二里ほど上がったところにある山寺に運ぶ。

 ところが、そんな折りに、別の屍骸を見つけることがある。一人旅で誰にも気づかれぬまま、崖下に落ちて助けも呼べずに息絶えたというものだ。見つけるのが早ければいいが、そうでなかったら獣に食いちぎられて、まともに目をむけることはできない。

 だから、その辺りには浮かばれない霊魂がいくつも溜まって、助けてくれと声を上げている。早く金を届けないといけないと若い男の声がするかと思うと、男の名を呼び続ける女の声がする。日のあるうちにそいつらの声が聞こえるのは、まあ、俺ぐらいだが……

 ある夏の日の夕暮れだった。いつものようにその崖の道を通りかかったら、ただ一人、先を急ぐ様子で歩く年寄りとすれ違った。そんな時刻にここを通る旅人は、夜通し歩くか、そうでなければ二里先の山寺で一夜の宿を請うか、あるいは野宿と決まっている。大方、山寺に泊めてもらうんだろうと思って歩いていたら、人の争う声が聞こえたからそっちへ走っていくと、さっきの年寄りが髭面の男に刺されて崖下に転げ落ちたところだった。髭面の男は、しまった、と口にしたがすぐに横へ回って少し傾斜のゆるやかなところを滑りながら降りていく。

 後を追っていくと、髭面は倒れている年寄りの懐に手を入れて、胴巻きを引っ張り出している。追いはぎ山賊の類いに金と命を奪われては、年寄りも浮かぶに浮かばれまい。

 俺が、おいと声をかけるのと同時に髭面はこっちに気づいて、腰にさげた山刀を抜いて凄んだから、胴巻きを置いて逃げろ、と俺が言ってやったら、そいつは不敵に笑って、

「逃げるのは、お前だろ」

 言ったとたん、大きく身体を震わせて、その髭面に恐怖が走ったのが見てとれた。

 木漏れ日も失せた木の間闇。 

 助けてくれ、急ぐんだ、金を返してくれ……

 さまざまに声がする。それでも髭面は、山刀を振り回して俺をにらみつけ、

「妙な術を遣うじゃねえか」

 精一杯の虚勢を張ったが、俺はかまわず歩み寄って、息の絶えた年寄りの身体を肩に担いで、髭面の手から胴巻きを奪い返した。

 髭面は奪われまいという表情を見せたが、すでにいくつもの幽霊の手に取り憑かれて、自在に動くことができなくなっている。

 俺がそのまま立ち去ろうとすると、

「ま、待ってくれ、助けてくれ、置いていかないでくれ」

 髭面は懇願した。

 仕方がないから、

「今はどうしようもない。明日の朝、お前の骸は取りにきてやる」

 髭面にそう言ったとたん、俺に取り憑いていた手はいっせいに消え失せた。

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