第14話 過去との決別

 家に帰るとメールの返事が携帯に届いていた。

『オッケー、わかった。じゃあ来週の木曜夜!』

 花園はただ映画を見るだけだと思っている。何も伝えていないのだから当然だ。これからしようとすることを思うと、彼女になんだか悪い気がした。けれど、それでもやらなければいけない。自分のために。


 そしてその日が来る。

 その日の授業が全て終わると俺は電車に乗り、空いてる座席に腰を落ち着けた。そして深く息を吐く。メールを返した瞬間はその時の気分というか何でも出来る気がしていたが、少し時間が空き冷静になってみるとやはり足がすくむ。何か悪事を働こうというわけでも無いのだが、どうしても気分が重くなる。車窓から見える光が高速で左から右へと流れていく。SF映画でよくあるタイムトラベルの演出に思えてくる。今から俺は過去へと向かうのだ。四年前の、俺と花園が別れた時へと。

 あのときも、一人で帰りながこうして窓の外の光を眺めていた。けれど、あの時とは違う。今は花園から遠ざかるのでなく、俺から近づいていくんだ。

 膝の上に置いた拳をグッと強く握る。握力がつづく限り力を込め続ける。限界に達すると一気に脱力した。

 映画館のロビーにつくと、先に来て待っていたらしい花園の姿が見えた。俺を見ると、花園はこちらに近づいてくる。

「だいたい一ヶ月ぶりかな」

「そうだっけ。そんな気はしないな」

「あは、確かに。なんでだろうね」

 花園は無邪気に笑う。俺の背筋を冷たい汗が伝う。心臓の鼓動が早くなる。

「それじゃあ先にチケットだけ買っちゃおうよ」

 花園が券売機に向かおうとする。

 いまだ。

「――待って」

 俺の声に花園が足を止め、こちらを振り返る。

「ん、どうしたの?」

「ちょっと話したいことがあるんだけど……そこに座らない」

 そう言うと花園は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに「いいよ」と先にソファに座った。彼女の隣に、近すぎず遠すぎず中途半端な距離を保って座った。

「…………」

「……」

 話始めるタイミングをつかめない。ただ座っていることができず、周りの風景に首を巡らせる。ロビーに特に変わった様子はない。いつもと変わらない人の数、暇そうな売店のスタッフ、ソファの端に座る帽子を目深に被った男性。

 さて、どうやて話を切り出そうものか。突然に「あの時どうして俺の振ったのか教えてほしい」と切り出すのはためらわれる。やはり、ここは他愛ない世間から自然な流れで訊くのが一番いいのか。いや、でもそれは遠回しすぎるか。最初は中学の頃の同級生の話から入るのがスムーズか。

「あ、あのさ――」

「ねえ」

 花園が何かを言い出すタイミングと被った。

「あ、ごめん」

「いいよ、そっちから――」

 相手の話を先にさせようとする言葉も被る。しばしの沈黙が生まれた。すると花園が突然「――ふふっ」と笑った。俺もそれにつられて笑ってしまう。

「――なんかこうして祐一くんと二人で座ってるって、なんだか信じられないな」

 ひとしきり笑うと、花園がそんなことを言った。

「どういうこと?」

「そのまんまの意味」

 どういうことだ?

「成人式のとき、私のこと避けてる気がしたから。だから」

「いや、べつに避けてたわけでは――」

 避けていた。あのとき、俺は確かに花園と顔を合わせることを嫌ったが、それを花園は別の意味に解釈していたのかもしれない。

「――そうじゃなくて」

 花園に本当のことを伝えるべきだろうか。正直に伝えることで彼女に嫌な思いをさせるかもしれない。けれど、相手の考えがわからずに悶々とするのはもっと悪い気がした。だから俺は、

「怖かったんだ。花園に会うのが」

 正直に自分の気持ちを口にした。

「怖い? どうして?」

「それは……花園が俺のことをどう思ってるかわからなかったから。だから会うのが怖かったんだ。もしかしたら嫌われてるんじゃないかって。現実を知るのが怖かったから俺は花園から逃げたんだ。あの時もそうだ、あの時も理由を花園の口からきくのが怖かったんだ。だから何も聞かなかった」

「あの時って?」

「……四年前の、花園が俺を振ったときのことだ」

 俺がそう口にすると、花園は居心地が悪そうに身をよじった。

「花園は突然俺の元を去った。何の前触れもなく。それまで俺は花園の気持ちがわかってあるつもりでいた。でもあの瞬間、俺はなにもわかっていないことを気づかされた。……なあ、花園はあの時何を考えていたんだ。どうして何も言わずに俺を振ったんだ」

 花園は口を固く結び、スカートを手で握りしめていた。花園は俯き、髪に隠れてその表情は見えなかった。

 それからどれだけ待っただろう。花園はスカートから手を離すと、ゆっくりと顔を上げた。

「――それは私のセリフだよ。祐一くんが何を考えて、私のことをどう思っているのか全然伝えてくれないから! 私だってわからないよ」

 そう言って俺を見る花園の目は赤くうっすらと充血していた。俺は驚いた。

「なにを、言ってるんだ」

 何も言わなかったのはそっちじゃないか。つい声に非難の色が混じる。

「俺は好きだと、告白したときに言っただろ」

 返る言葉は冷たかった。

「それだけだったよね」

「それだけってどういう」

 花園は「一生幸せにする」や「結婚を前提に」など、そんな重たい言葉を求めていたのだろうか。だとしたらそれには答えられなくて当然だ。たとえいまでもそんな言葉は口にできない。花園が口を開いた。

「それっきり何も言ってくれなかった。たった一度言ってくれただけで

 それで満足したみたいに」

「あっ」

 全くの思い違いだった。そんな取り繕ったような言葉を、花園は求めてはいなかった。

「付き合い始めたらそれっきり何も言ってくれない、何もしてくれない。キスをしようとしないし、それどころか自分から手を繋ごうともしない。そんなに私って魅力がない? それとも付き合い始めたら途端に興味を失ったの? 一緒にいるとそんな後ろ向きな考えばかりが頭をよぎった。祐一くんが何もしてくれないから、私だけが頑張るのは疲れちゃたんだよ……」

 最後の言葉は小さくて、弱弱しく空気中に溶けて消えてしまいそうだった。

 俺のせいなのか。これまでのこと、すべてが。糾弾の言葉を素直に認める事ができなかった。

「だったら言ってくれれば。一言言ってくれれば、そしたら俺だって――」

「……そんなこと、私から言えるわけないよ」

 花園は顔を逸らして下を向いてしまった。

 今のは失言だった。自分がしなかったことの責任を相手に押しつけようとするなんて人として最低のことだった。

「ごめん」

 花園は何も言わなかった。

 しばし俺たち二人の間に沈黙が続いた。ロビーに設置されたモニターから聞こえてくる音がいやにうるさかった。

 館内アナウンスが、入場の開始を知らせる。周囲の人たちはおもむろに席を立って入場口に向かって歩きだす。俺と花園は、ただそのまま座り続けた。俺たちの周りの時間だけが周囲の世界から切り取られて止まっているようだった。花園は下を向いたまま、身じろぎ一つしない。

 それから不意にモニターの映像が消えた。ふつうならロビーに人はいない時間、劇場スタッフがモニターの電源を切ったのだろう。周囲から音は消え、花園の小さな息づかいだけが俺の耳に届いた。

 いつまでもこうしているわけにはいかなかった。俺は拳を握り込み、話の続きを切り出した。

「じゃあつまり、花園が俺と別れようと言い出した理由は俺の態度に問題があったってことなのか。俺がずっと何もしなかったから。そういうことなのか」

「……うん」

 花園は頷く。そして続ける。

「どうして祐一くんはせっかく付き合ったのに、なにもしようとしなかったの。男の子ってそういうことがしたい、っていうのは言い過ぎかもしれないけどそう言う気持ちがないわけではなかったんでしょ」

「たしかにそう言う気持ちがないって言うとそれは嘘になる。あるにはあった。でもそんな風に花園に思われてしまうのが嫌、だったのかもしれない。俺はそんなことがしたいから付き合ったんじゃないって、意地になってたのかもしれない。それに、勘違いしてたんだ」

 俺は天井を見上げた。間接照明の淡い光がこの空間をやさしく包んでいる。

「何を」

「一度好きという気持ちが伝わったんなら、それでお互いのことを全部知った気になってたんだ。何も言わなくても俺の気持ちは伝わってる、この関係がこの先もずっと続いていくんだって、そんなことすら思っていたのかもしれない。それはとんだ思い違いだったって、花園と別れてから気づいたんだけどな」

「……祐一くん」

 自嘲気味に答える主人公。そんな様子を見て花園は優しい声で聞く。

「祐一くんは、私のこと好きだった?」

「――好きだった。あの瞬間、誰よりも花園の事が好きだった」

 俺の目からは涙が流れていた。拭っても拭っても、涙は止めどなく俺の視界を歪ませた。

「いまでも、好き?」

 俺はその言葉に驚いて花園の顔を見た。

 あの時の答えを得て、俺の中で答えは出た。

 俺は首を横に振った。

「今は、あの時と同じ気持ちを抱くことはできない。けど、好きだよ花園のこと」

「――そっか」

 花園は笑った。

「今ならまだ間に合うかな、映画」

 そう言って花園は立ち上がり券売機を指さした。

「え、ああ。そうだな」

 時計を見る。上映開始から二十分以上は経っていた。

「いまからだともう厳しんじゃないかな」

「あー、そっか」

「……ごめんな」

「謝らないで」

 そして花園は出口の方へ歩き出す。

「また来週にでも見に来ればいいだけだしさ、一人で」

 俺は駆ける言葉は見つからず、口を閉ざしたままでいた。

「それじゃあ、バイバイ。村瀬くん」

 花園は歩いて行く。

「……ああ、バイバイ。花園さん」

 これで俺たちは赤の他人だ。昔付き合っていたというだけの男と女になった。それ以上でもそれ以下でもない。四年前にするべきだったことを今終わらせた。

 もう少し喪失感というか寂寥感のようなものが生ずるだろうと思っていたが、全てを終えたいまはむしろ清々しい気分と言えた。

 いや、まだ全部が終わったわけではない。まだ風岡さんと話をしていない。このまま彼女との縁が切れてしまうのを黙って待つことはできない。

 映画館の外に出た。東の空の際にオリオン座が姿を見せ始めていた。冬の始まりだ。

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