2章

第8話 昔の彼女

 その日も、俺は映画館にいた。

 毎週の木曜にこうして映画館に来ることは、いまでは予定として俺のスケジュールに組み込まれている。

 鞄の中にはスケッチブック。今日でこのスケッチブックは使い切るだろう。来週までには新しいものを買っておかないといけない。

 そんなことを思いつつ券売機の前に立っていると、「あのー、すみません」と背後から声がかかった。

「あ、すみません。すぐに済ませます」

 振り返りざまに軽く頭を下げ、券売機の画面をタッチして急いで購入画面へと進む。少しもたついて待たせてしまったかもしれない。

「いや、そうじゃなくて」

 再び声が掛けられた。

 券売機で人待ちが出来るなんて珍しい。そう思い、横に並べられた数台の券売機に目を向けるが、人が並んでいる様子はなかった。

「……なんですか?」

 他の券売機が空いているのに、わざわざ俺を急かして何のつもりだろうか。言いながら声の主を振り返る。

 俺の後ろに立っていたのは若い女性だった。見た感じ俺と同年代だろう。そして、なぜかは分からないが、その女性を見た途端、心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。

「――やっぱり」

 女性はなにやら確信めいた様子でそう呟いた。

「やっぱりそうだ。祐一くんだよ」

 女性は俺の名前を口にした。女性の顔をよく見る。

 メガネを掛け、編み込まれた髪が左右から回して頭の後ろで結ばれている。何かの雑誌で見たことがある。確か、ハーフアップというやつだ。よく見ると、メガネに度は入っていないようだ。ベージュのコートの下には明るい色が見える。

「……花園」

 女性の名前が俺の口から出た。俺はその女性を知っていた。

 花園清花。俺にとって忘れることは出来ない名前だった。

「お久しぶり。えっと、四年ぶり?」

 花園は笑う。

 花園が言う通り、こうして話をするのは四年ぶりのことだった。去年の成人式、会場で花園の姿を見たが声は掛けなかった。その時は何を話せばいいのか分からなかった。

 その花園が今俺の目の間にいた。ヘルメットで髪の毛が乱れていないだろうか。俺は手ぐしで髪をなでつけた。

「チケット買わなくていいの?」

「え、ああそうだった」

 購入手続きの途中で止まっていた画面を先に進め、発券されたチケットを手に取る。花園に券売機を譲ろうと横にずれると、彼女は懐からチケットを取り出しひらひらと振って見せた。

 上映までは少し時間があった。俺と花園は時間までロビーのソファで待つことになった。俺が座ると、花園は五十センチほど距離を空けて座った。

 横に座る花園を横目で窺う。彼女はロビーに設置されているモニターを流れる映像を見ていた。

「祐一くんは一人?」

 顔はモニターに向けたまま、花園が訊いてきた。

「うん、まあね」

 そう尋ねると、花園は俺の方へ顔を向けた。

「わたしもね、友達を誘ったんだけど興味無いって言うの。だから私も一人」

「そうなんだ」

「うん、そうなの」

 ……話が続かない。何か話題を振ればいいのだろうが、何を話せばいいのかわからない。花園は黙ってモニター映像を見ていた。

「……映画館にはよく来るの?」

「ううん、そんなに。気になる映画があるときだけかな。祐一君は昔から映画好きだったもんね」

「そうだね。そういえば、今日は何の映画見るの?」

「これこれ。ほら、最近テレビのCMでよくやってるんじゃん。それ見たら面白そうだと思って」

 そう言って花園はチケットを俺に手渡した。見ると、俺が選んだ映画と同じだった。その事を伝えると、

「え、そうなの? 奇遇だね。席はどこ? やっぱり真ん中の席?」

 今度は俺がチケットを渡して見せた。

「あれ、真ん中じゃないんだ。前はそうだったよね」

「よく憶えてるね」

 花園がそんなことまで憶えているとは思っていなかった。一緒に映画を見たのは二回しかないのに。

「どう、記憶力いいでしょ? わたし皆が忘れるような小さいことも結構憶えてるんだ」

 そんなことをしてると入場開始のアナウンスが流れた。俺が立ち上がると、花園もその後を付いてきた。

「ポップコーン買うんでしょ? わたしも何か飲み物でも買おうかな」

 そう言って花園は売店前に置かれたメニューの前に屈んだ。

 ポップコーンを買って入場口に向かうと、後ろから花園が追いかけてきた。手にはコーヒーを持っていた。

「どうせ同じなんだし一緒に行こうよ」

 ふわっと、花園から甘い香りがした。

 それから二人で係員にチケットを渡してシアターに向かう。

「それ、一人で食べるの? 結構多くない?」

 花園は歩きながら俺の持つポップコーンを見て言った。

 これでも一応Mサイズ。真ん中の大きさだ。

「あれ、あの時もこの大きさだったっけ?」

「……いや、あれはLサイズだったかな。二人で食べるからって」

「そうだそうだ。もっと大きかったよね。あの時は半分くらい残しちゃったっけ。てか、祐一くんもしっかり憶えてるんじゃん」

 あの時もこの映画館だった。

 花園と付き合い初めて最初のデート。俺は花園を映画館に誘った。選んだ映画は、三部作の1作目にあたるもの。今思えば、デートで見るような映画ではなかったと思う。

 隣り合った座席を選択し、上映中に二人で食べようと一番大きいLサイズのポップコーンを買った。二人で食べるからと、お金は二人で出し合った。それを二人の座席の間の肘掛けに置いた。

 俺はポップコーンを食べたかったが、彼女が手をつける前に食べ始めるのは躊躇われた。けれど、花園はなかなか手を付けようとはせず、しばらくしてから俺が食べ始めると、花園も少しずつ食べ始めた。

 二人で買ったのに俺ばかり食べているのが申し訳なくなり、途中からは食べるのを止めた。そして、上映終了後。二人の間に置かれたポップコーンは半分も減っていなかった。

「……まあ」

 俺にとっては良い意味でも悪い意味でも、忘れられない初デートの思い出だったが、まさか花園がそれを覚えているとは思わなかった。

 シアターの入り口まで来ると、そのまま俺たちは連れだって中に入った。

 座席にはすでに数人の人影があった。そして、そのなかには風岡さんの姿も。

 風岡さんは俺を見ると、身体の前で小さく手を上げた。俺も手を上げることでそれに応えた。

「あの人知り合い?」

 それを見ていた花園がそう訊いてくる。

「うん、まあ」

「そうなんだ」

 そう言うと花園は席に座った。

「あれ、席そこなの?」

 思わず声が出た。

「そうだけど、どうして?」

「……いや、なんでもない」

 俺も席に座る。

 俺の席は先週より更に一つ前に近づいた席で、風岡さんの座る席も先週より一つ後ろにずれていた。俺と風岡さんの距離は座席一列分。そして花園は、俺と風岡さんの間の列に座っていた。座席の位置的に、俺と風岡さんの間に花園がいるような形で、俺たち三人は斜め一列に並んでいた。意識しようがしまいが、前に座る二人の姿が視界の隅にちらつく。

 それから程なく予告映像が流れ始め、そして上映が開始された。

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