第5話  彼女の名前

 シャワーでさっと汗を流すと、そのまま湯船に浸かった。

「ふう」

 ため息が口をついて出る。目を閉じれば、彼女の姿が浮かぶ。

 ついに彼女と話をするころが出来た。今にでも踊り出したい気分だ。けれど、そう素直には喜べない。

 湯船から上がる。服を着て、台所に置かれていた夕食をレンジで温めて食べる。

 自室に戻りベッドに寝転ぶと、インターネットの検索欄に「聾唖者」と入力する。

 検索結果の上から順にウェブページを覗いていく。そこに書かれていたのは俺の知らない世界だった。

 音の無い世界、それは一体どのような世界なのだろう。

 試しに両手で自分の耳を覆いでみる。しかし、音を完全に消すことは出来ず、指のわずかな隙間から音が――時計の秒針を刻む音、秋の空に響く電車の音、様々な音が俺の鼓膜を震わせる。

 彼女はいつから音が聞こえないのだろう。生まれつき耳が不自由だったのか、それとも何か事故などで聞こえなくなってしまったのか。それは好奇心で尋ねていいことではない。

 彼女は自分でそのことについて語ったとき、笑顔を浮かべていた。「聾唖」という冷たい字面とは異なり、温かい笑顔だった。

 きっとあの笑顔は、俺のことを、重たい事実を伝えられる相手のことを気遣うための笑顔だったのだろう。映画の話をしているときの彼女は本当に楽しそうに笑っていた。

 彼女の事を考えるの胸が早鐘を打ち、なかなか眠ることができなかった。結局、俺が寝たのは空が白み始めた頃だった。

 その日のこと。

 昼前には目を覚まし、電車に乗って大学に向かった。そのまま家で寝ていたかったが、授業をサボる気にはなれなかった。

 大学の講義室の座席はまばらに埋まっていて。それほど大きな教室でなく満席になったとしても人の数は百には満たない。初回の授業時はほぼ満席に近かったが、出席が単位に関係しないと知れるや人の数は週を経る毎に減っていった。

 俺はとりわけ人が少ない、前方の席に座る。後方の席だと講義に集中できいからだ。

 すこしすると、一人の男が俺の隣に腰掛けた。

「よう、ずいぶんと眠そうだな」

 からかい調子で声を掛けてきた男――結城を、俺は手であしらう。

「なかなか寝れなくてさ。講義が始まるまで寝かせてくれ」

「眠いんだったら寝かせてやるよ。講義が終わる時間まで起こさないからさ」

「俺は講義を受けるために、寝ぼけ眼をこすってわざわざ来たんだ。授業中は寝ない」

「真面目だねぇ。それで、なんでそんな眠そうなんだよ? ……もしかして女か?」

「お前はいつもそうやって……違うよ、そんなんじゃない」

 異性が絡むことに関しては妙に感の鋭い奴だ。そんなことは一言も言っていないのに。

「……あやしいな。そうかそうか、遂にお前にも春がやって来たか」

 結城は俺の話を聞こうとせず、勝手に決めつけて話を進める。

「年中春のやつが……そんなんじゃないって」

 したり顔で頷く姿が腹立たしかった。

「それで、どんな子だ? 同じ大学の子か? 俺の知ってる子? ……おいおいまだ寝るなって。誰にも言わないからさ。名前だけでも教えてくれよ。そしたら、寝かせてやるからさ」

「……名前」

 昴の言葉で気がついた。彼女と話せたことに満足して、まだ名前を聞いていなかった。

 普通初めて話す時は名前だけでも簡単に紹介するものだが、彼女との会話は少し特殊で、その事をすっかりと忘れていた。次会った時は最初に聞こう。

 それから少しもしないうちに、教授がやってきて講義が始まった。

 講義中、横を見ると結城が気持ちよさそうに寝ていた。鼻をつまんで起こしてやろうかと考えもしたがそのまま寝かせてやった。

 授業が終わると俺は大学生協で、スケッチブックとサインペンを買った。

「そんなの何に使うんだ? 絵でも描くのか?」

 顔に立派な寝痕を付けた結城が訊く。

「……まあそんなところだ」

「ふーん」

 結城は興味を失ったのか、それ以上スケッチブックの用途に関して追求してこなかった。

 今日の講義はもうなかった。大学の正門まで行くと、一言二言交わして別れた。

 そして木曜。スケッチブックとサインペンを鞄に入れ、俺はいつもの映画館に向かった。

 ロビーに彼女の姿はなかった。

 チケットとポップコーンを購入する。座席はいつもと変わらずシアターのちょうど真ん中に位置する席を選んだ。客の入りはこの時間帯にしては多かった。とはいえ十を少し超える程度。

 今日選んだのはアクション映画。シリーズものの人気タイトルだ。いつもより人がいるのもそのせいだろう。

 こういった有名タイトルを見る時、公開直後ではなく公開から数週間後に見る事が多かった。すぐに見たいという気持ちはあるが、少し間を空けることで落ち着いて鑑賞が出来る。人が多いと、不快な人間と同席する事が多々あり、俺はそれが許せなかった。そうした輩を目にすると気が散ってしまい、スクリーンに映し出される映像に集中することが出来なくなる。

 入場開始まではいくらか時間があった。ロビーに設置されたソファに腰掛け待つ。入場開始の数分前になると、彼女がロビーに姿を現した。俺は彼女に向かって小さく手を上げた。彼女も同じように手のひらを見せてそれに応えてくれた。

 時計を見る。上映前に彼女と話をする時間はなさそうだ。

 彼女はチケットを購入しに券売機へ向かった。その間に入場開始の館内アナウンスが流れた。俺は係員にチケットを見せて先に中へ入った。

 指定されたスクリーンへ入り座席に着く。映画館の座席は長時間座っても疲れないような作りになっていて心地が良い。家にひとつ置きたいくらいだ。

 そのまま座席の座り心地を堪能していると予告映像が流れ始めた。彼女はまだ現れていなかった。この時間になって姿を見せないということは、彼女は違う映画を選んだのだろう。それから映画の上映が始まった。

 ***

 二時間弱で映画は終わった。スタッフロールを最後まで見届け、照明が戻ってから席を立つ。映画の世界から現実に引き戻され、自分の足で歩くことに違和感を覚える。映画館で映画を見た後は毎回そんな感覚に陥る。まあ、映画館を出る頃には元に戻る程度のものだが。その足のままシアターを出た。

 歩きながら鞄に入れたスケッチブックの感触を確かめる。せっかく買ったのだが、今日は出番がなかったな。

 顔を上げて通路の天井を見ながら歩くと、ちょんちょんと右肩を触れる何かがあった。天井から視線を外し、横を見る。すると、通路の途中、先週と同じ場所に彼女がスケッチブックを持ちながら立っていた。

『また来週、って先週の帰り際に伝えたんですが……やっぱり迷惑でしたか?』

 そんなことが書かれていたのか。俺は急いで鞄から自分のスケッチブックを取り出し、ペンを動かす。

『すみません。この間は何て書かれていたのか暗くて見えなくて。迷惑なんてことはないですよ。俺も楽しかったです』

 彼女にスケッチブックを見せた。呆けた顔をしていた彼女はすぐにペンを持ち直し手を動かす。

『良かった。半ば無理矢理話に付き合わせてしまった気がして。それにそのスケッチブック、わざわざ用意してきてくれたんですか? 嬉しいです』

 彼女はパッと顔を明るくした。それを見て俺もつい嬉しくなる。

 同じシアター内で彼女も見かけなかっただけで、今日はもう彼女と話を出来ないと勝手に思い込んでいた。それがまさか彼女の方が俺を待ってくれていたとは思いもよらなかった。

 それから俺はスケッチブックの一番最初のページを開いた。そして、それを彼女に見せる。

『村瀬祐一といいます。あなたの名前を教えてもらえませんか?』

 俺はあらかじめ、忘れないようにと書いておいた。

 彼女はそれを見ると、慌ててペンを握った。

『風岡花音です。この前は名乗りもせずすみませんでした。以前からよくお見かけしていたもので、失念していました』

 彼女――風岡さんが書いた文字は急いで書いたせいか、字が崩れていて。これまでの端正な文字との差に、思わず吹き出してしまう。

 風岡さんは眉をひそめ、スケッチブックを上から覗いて自分で書いた文字を見ると顔を赤くした。風岡さんはすぐにページをめくって隠してしまった。

 風岡さんにとって崩れた文字を見られるのは恥ずかしいらしい。俺が素っ頓狂な声を上げて恥ずかしくなるのと同じ感覚なのだろうか。

『そんなことより、ほら、映画の話をしましょう! 祐一さんは何の映画を見たんですか?』

 風岡さんは強引に話題を変えようとした。暑いのか、スケッチブックを団扇代わりにパタパタと扇いでいる。

『先週の金曜にテレビでやってたシリーズの最新作を見ました』

『あれですね! 私もちょっと前に見ましたよ。このシリーズの中だったら、祐一さんは何作目がお気に入りですか?』

『五作目です。初めて見たときは「これだけ続いていて、まだこんなに面白い物語が生まれるのか」と驚きました』

『確かに良いですよね。私はやっぱり二作目ですね。あれでこのシリーズの地位を確立した気がして。いまでもたまに見返してます』

 スケッチブックは意外と重く、ずっと持っていると手が疲れた。彼女を見ると、平気そうだった。

 こうして相手の顔が見えるのに、黙々と手を動かして文字で会話をする。相手が書いた文字を読み、それへの返事を書く。どうしてもやりとりに時間はかかってしまうが、ゆっくりと落ち着いて意志の疎通が出来、なんだか心地よかった。

『風岡さんは何を見たんですか?』

 風岡さんはペンのキャップを外す前に、一度腕時計を見た。俺もつられて時計を見ると、映画の上映が終了してからすでに三十分が経っていた。

 口に出せば数分もかからないやりとりも、文字を書いて伝えるとこんなにも時間がかかってしまうものなのか。

『ごめんなさい。お母さんが来るまで待ってるので、そろそろ帰らないと……』

 俺たちは困り顔でこちらの様子を窺っていた劇場スタッフに頭を下げながら映画館を出た。

『また来週、ですね』

 風岡さんは出口近くの照明が当たるところでそう言うと、迎えの車へ走りより乗り込んだ。風岡さんを乗せた車は静かに走り出す。それを見送ると俺は駐輪場へ向かい、バイクに跨がった。

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