第4話 無口な彼女

『お時間を取らせてしまって申し訳ありません。私は聾唖なんですです。ですので――』

 無機質で感情を持たない彼女の“言葉”が、俺の言葉を一時的に奪い去った。

 聾唖――。

 言葉の意味としての知識はある。耳で音を感じることができず、口で言葉を発することが困難または不可能という意味だと記憶している。しかし、知識としては知っていても、これまで実際に聾唖の方と会ったことはなかった。

 スケッチブックを両手で持つ彼女は微笑みをたたえていた。それは彼女が語った言葉には似合わない美しさで、それが痛々しかった。

「あ、その……ええっと」

 目が泳ぎ、俺の口からは意味を成さない間抜けな声が出た。彼女にはこの声も届いていないのだろう。

 俺はもう一度、彼女の顔に目の焦点を合わせた。彼女は変わらず笑顔でスケッチブックを手に、俺をまっすぐに見ていた。

 彼女がそんなハンディキャップを持っているなど露にも思っていなかった。彼女のことは何一つとして知らなかったけれど、こうして映画館に通って俺と同じように映画を見ているのだからまさか耳が不自由だなんて。

 思い返せばたしかに彼女の姿を見るのはいつも字幕付きの洋画を選んだときだけだった。吹き替えや邦画では一度も彼女をシアター内で見かけたことがない。これまでは、単に彼女は洋画字幕派なのだろうとしか考えていなかった。

 再び紙の上をペンが走る音が聞こえた。彼女は書き終えるとスケッチブックをこちらに向けた。

『私の勘違いでなければ、毎週、この時間にいますよね?』

 思わず彼女の顔を見る。彼女はニコッと笑うと、再びペンを走らせる。書き終えペンにキャップをすると、

『私も毎週この時間に映画を見てるんですよ。いつも中央の席に座ってますよね?』

 と、上目遣いで俺を見る。

 彼女は俺に気がついていたのだ。

 そこで初めて先週のことは俺も思い違いだということに気がついた。先週、彼女は俺の声を無視したわけじゃなかった。本当に聞こえていなくて、俺が声を掛けたことに気がつけなかったのだ。

 彼女は何かを待つように俺のことをジッと見ていた。

 どうしたのだろう。

 一瞬考え、俺がまだ彼女に何一つ言葉を伝えられていないことに気がついた。

 少し考え、俺はポケットから携帯を取り出した。メモ帳のアプリを起動し文字を入力する。入力を終えると、俺は携帯の画面を彼女が見えるように向けた。

『実は僕も、よく見かける人がいるなと思ってたんです。だからすぐにあなたの鞄だと分かったというか』

 彼女はスケッチブックを脇に挟み、両手を胸の前に合わせてこれまでで一番の笑顔を見せてくれた。

 彼女は再びスケッチブックを開いた。

『もし迷惑でなければ、今日の映画のこととか少しお話できませんか?』

「いいですよ、もちろん!」

 彼女の言葉が嬉しく、つい声で返事をしてしまった。それから携帯で文字を打ち、彼女に返事をした。彼女はクスリと笑った。

 それから俺と彼女の、文字による会話が始まった。

『ありがとうございます! それでは早速! 今日の映画はどうでした? 私は……正直なところ微妙だと感じました。どこかで見たことがあるような、既視感を憶える展開が多くて……』

『俺も同じことを思いました! SFスリラーものってどうしても似たようなになりがちで、やっぱり宇宙を舞台にするからなんですかね? 難しいジャンルですよね』

『ですよね、そうなんですよね! 場所が宇宙や宇宙船に限られるとどうしても登場人物の数が少なくなりがちで、話の流れも同質のものになりやすくて。でも、だからこそ違った展開になるんじゃないか、と期待して、それで勝手にがっかりしちゃうことが多いんですよね……』

『今日のは、先の作品を意識しすぎてる感じがしましたね。あそこからもうひと捻りがあればまた違ったものになったかもしれないのに……』

 俺は携帯に文字を打ち込み、彼女はスケッチブックに文字を書く。傍から見たら奇妙な光景なのだろう。実際、少し前から数名の劇場スタッフが俺たち二人を遠巻きに見ていた。

 ふと時計を確認すると、シアターを出てから十分以上が経過していた。すでに他の客の姿は見えなくなっていた。彼女も時間が気になったのか、腕時計を見た。

 それから、どちらから言い出すともなく俺たちは映画館を出た。

 映画館を出てすぐ目の前に広がる駐車場に一台の車が止まっていた。俺たちが外に出るるのを待っていたのか、ヘッドライトが点いた。彼女は車の方へと身体を向けた。彼女の迎えの車のらしい。

 彼女はささっとペンを動かすと、スケッチブックを見せた。が、辺りは薄暗く、何が書かれているのか読み取ることが出来なかった。そして、彼女は俺がそれを解読するのを待たずに車の方へ歩いていく。

「待って!」

 咄嗟に俺は声を出す。しかし、彼女は足を止めることなく、そのまま車に乗り込んでしまう。

「…………」

 彼女が最後に何を書いたのか分からずじまいになってしまった。それを知る事はできなかった。

 駐車場に残された俺は、入り口から少し離れた所に駐めておいたバイクへ向かい、跨がる。

 エンジンを始動させ、勢いよくアクセルを開く。大きな音が空の駐車場によく響いた。

 ヘルメットを被る。それからもう一度アクセルを開き、クラッチを繋ぐ。少し操作がざつだったのか、ガタンガタンとジェットコースターの発車直前のように身体が揺さぶられる。慌ててクラッチを切り、それから落ち着いてゆっくりと繋ぎ直した。

 バイクの軽快なリズムに乗りながら夜の公道を走る。いつもなら家まで最短ルートを通りすぐさま着たくしているところだが、今日はまだ家に帰りたくなかった。もう少しこの高揚した気分に浸っていたかった。

 いつもなら直進する道を左折。大回りのルートに乗り、勢いよくアクセルを開く。この時間帯の通行量は少なく、前後を気にすることなく走ることができる。法定速度ギリギリまで加速する。身を切るように流れていく風が気持ちよかった。

 それから一時間ほどドライブを続けると、家に帰った。普段から移動の足としてバイクを使っているとはいえ、一時間近く乗りっぱなしということは滅多になく、股関節から足にかけての筋肉が少し痛んだ。

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