第3話 忘れ物
それから二日が経ち、木曜が訪れた。
先週の出来事が俺の足を重くしていた。彼女は俺の呼びかけを聞こえていて無視したのか、それともそうでないのか。確かめたい気持ちはあるが、今はまだ心の準備が出来ていないから会いたくはない。そんな矛盾した二つの思いが俺の内でせめぎ合っていた。
しかし、気がつけば俺は映画館へ向かっていた。
信号が青に変わる。
アクセルを開き、俺は映画館へ向けてバイクを走らせた。
券売機でチケットを、売店でポップコーンを購入。入場開始のアナウンスが流れると、チケットを見せ入場する。ロビーで彼女の姿は見えなかった。そのことにすこし胸を撫で下ろす自分がいた。
シアターに入ると、入り口に近いいつもの席に彼女が座っていた。つい彼女の顔を見てしまう……目が合った。
彼女は一体どんな反応をみせるのか、と一瞬身構える。が、彼女はすぐに俺から視線を外した。
彼女は先週のことに気がついていなかったのか。いやそれとも……。今の彼女の反応からはどちらか読み取る事ができなかった。どちらにしても彼女は俺に興味をもっていないのだろう……。
彼女の横の通路を通って自分の席へ。席に着いてから少し経つと予告映像が流れ始めた。
この日の映画はSFスリラー。宇宙船という密室空間で起こった事件により、船員達は船内に姿を隠した殺人鬼を恐れて疑心暗鬼に陥った人々を描いたものだった。
約二時間に及ぶ上映が終わり、シアター内が明るくなった。数人いた観客が次々と席を立っていく。出入り口に近い席に座っていた彼女も席を立ち、シアターを出て行った。
彼女の姿が見えなくなってから俺も席を立った。シアターを出る前、何の気なしに彼女が座っていた座席に目を向けた。すると、彼女が座っていた座席の下に女物の鞄が置かれているのに気がついた。何度か目にしたことがあるもので、それが彼女の物だとすぐに分かった。
「どうしよう……」
鞄の傍まで近づき独りごちる。
今から彼女の後を追えば、直接手渡すことはできるだろう。けれど、再び彼女に声を掛けるのは躊躇われた。また彼女は振り返ってくれないんじゃないかと思うと……。
辺りに首を巡らせると、ちょうど劇場スタッフが掃除用具を手に入ってきたところだった。あの人に渡しておけば、次に彼女が来たときにきっと渡してくれるか、忘れ物に気がついた彼女が自分で尋ねるだろう。
それがいい。館内放送でも「落とし物は劇場スタッフまで」と何度も繰り返しているのだから。
彼女の鞄を手に取り、出入り口に向かう。
「ご来場ありがとうございました。気をつけてお帰りください」
スタッフが俺に向かってそう挨拶をする。
「あの……」
「はい、なんでしょうか」
スタッフに鞄を手渡そうと、彼女の鞄を持った右手を持ち上げようとする。
そこで不意に、彼女のことが頭に浮かんだ。
鞄を忘れたことに気がついたら彼女は間違いなく困るだろう。この鞄の中に財布や携帯が入っているかもしれない。まだ今なら少し走れば彼女に追いつけるはずだ。たったそれだけのことで彼女が困ることはなくなる。
悩んでいる余地はなかった。
「いえ、やっぱりなんでもないです」
彼女の鞄を手にシアターを出る。通路を進むまばらな人の波の先に彼女の後ろ姿がちらり見えた。
俺は早足で彼女の背を追う。彼女との距離は、手を伸ばせば届きそうなまでに迫った。
そのまま手を伸ばして彼女の肩を叩き気づかせようとして、途中でその手を下ろす。突然見知らぬ男から肩に手を掛けられのは色々と問題があるだろう。
俺は小さく、彼女だけに聞こえるであろう声量で「すみません」と呼びかけた。
しかし、今度も彼女は俺の声に反応を示さなかった。彼女との距離は少しずつ離れていく……。
だが、それでは終われない。
先週とは違い、今は彼女に鞄を届けるという使命があった。
声で振り向いてくれないのならしかたないと、俺は彼女の華奢な肩に向けて左手を伸ばす。割れ物に触るかのように、俺は優しく彼女の肩に触れた。
それで彼女は遂に俺の方を向いた。
初めて彼女の顔をこんな近くから見た俺を見る彼女の目は驚きからか見開かれていた。
「……あ、突然すみません」
………………。
彼女は俺を見るのみで、俺の言葉への返事はどれだけ待ってもなかった。俺も雰囲気に飲まれて開いたままだった口を閉じる。
二人の間を沈黙が走る。
彼女は「なんの用ですか」と言いたげに、小首をかしげる。それをもって俺の問いかけへの答えとしているのか、彼女が口を開くことはなかった。
彼女は鞄を忘れたことも、俺がその鞄を右手に持っていることにも気がついた様子はなかった。俺はそのことを伝えようと、鞄を持つ右手を持ち上げた。
「これ、忘れてましたよ」
彼女は、はっとしたような顔をして、自分の身体を見、ペタペタと手でも触れて鞄がないことを確認していた。彼女はそれで初めて自分が鞄を忘れていた事に気がついたようだった。俺は鞄を彼女に手渡した。
「…………」
…………。
俺と彼女との間に再び沈黙が生まれる。
彼女から感謝の言葉を貰いたかったわけじゃない。忘れ物に気がついたから、ただそれを渡しただけで、善良な一市民として当然のことだと思っている。
だが、実際にこうして何の反応もないと、なんだが心が落ち着かない。
「えーっと、ただ、それだけなので。それじゃあ」
これで俺のやるべきことは終わった。彼女の横を取ってその場から去ろうとする。と、何かに引っ張られるような違和感があり、俺の足が止まる。違和感の正体を確かめようと見ると、彼女の白くか細い指が俺の服の袖をちょこんと摘まんでいた。
「え?」
思わず彼女の顔を見る。すると、彼女はその手をぱっと離した。
それから、彼女は俺から受け取ったばかりの鞄に手を入れると、何やらごそごそと手を動かし始めた。
一体何をしているんだろう。俺は彼女の様子をただ見ていた。
……まさか、何か盗られていないか確認をしているのか?
「ね、念のためいっておきますけど、何もしていませんよ……」
彼女は何も答えてくれない。自分で確かめないと信じられないとばかりに、手をうごかしている。
俺の背を汗が伝って落ちる。本当に何もしていないし、面倒事になる前にこの場を去ってしまうか? そんなことを考えていると、彼女は鞄の中から絵描きが使うようなスケッチブックと少し太めのペンを取り出した。
「……え?」
予想だにしていなかったものが彼女の手の中に現れ、呆気にとられる。彼女はスケッチブックを開くと、キャップを外したペンで何かを書き始めた。
なぜ、スケッチブックを? それで一体何をしようというのか。
言葉にならない想いが次々と喉元まで湧き上がる。だが、真剣に何かを書いている彼女の邪魔をする気にはならず、彼女がペンを持つ手を休めるのを黙って待った。
それから、彼女はペンを動かしてた手を止めるとペンのキャップをはめた。そして、スケッチブックを俺の方に向けた。
『鞄を届けていただき、ありがとうございます』
スケッチブックには、端正な文字でそう書かれていた。
俺は彼女の顔を見る。目が合うと彼女は腰を折り、頭を下げて全身で感謝を表現した。
「いえ、たいしたことはしてないので……」
そこまでして感謝されても逆に困ってしまう。そして、なぜだろう。
過剰な感謝の仕草に対して恐縮する気持ちと、なぜそこまでと困惑する二つの気持ちが混在していた。
彼女は俺が鞄を届けたことに対して感謝してくれていること、それは見れば分かる。だがなぜ、彼女はそれを音で伝えようとしないのだろう。
「ありがとう」と、たった一言口にすれば済むことだ。それなのに、彼女はなぜわざわざ時間をかけて文字に起こして伝えたのだろうか。意味もなくそんなことをするはずはない。
俺の疑問は、そのあとすぐに答えを得ることとなった。
彼女はスケッチブックのページを何枚かめくる。彼女が開いて見せたのは、スケッチブックの最初のページだった。俺はそこに書かれた言葉を読んだ。そして言葉を失った。
『お時間を取らせてしまって申し訳ありません。私は――――』
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