短編集
@luck_momo
貝に真珠
「そんなところで何をしているの?」
スピーカーから漏れる音で満たされた、夜の海みたいに冷たい空に、雑音が混じった。
「誰?」
「おれは貝だよ。気付いたらここにいたんだ」
ふと足元を見ると、たしかに、先程まで何もなかったはずの砂浜に、かさぶたみたいな二枚貝がひとつ。
「それで、きみは何をしているの?」
「見て分からない?」
貝は不思議そうに殻をゆらめかせた。
「ラジオを聴いてるんだよ」
「ラジオって、その変な音のこと?」
「そうだよ」
「……楽しい?」
「楽しくないね」
指先でつまみを転がしてみても、音の粒は増えない。どころか、ぽろりとつまみはとれてしまった。
「ほんとは、もっと色んな音が聴こえていたんだ。好きな色のぎゅっと詰まった時間だった。でも気付いたら、ノイズしか流れない」
「寂しそうだね」
「うん」
貝は一拍置いてから、ひとこと。
「おれ、聴いてみたいな。その音」
次の日、ふたたび貝は話しかけてきた。
「おれはね、記憶がないんだよ」
「そうなんだ」
緑色の絵の具を筆先につけた水で薄めながら、彼をいま一度眺めてみる。殻が、昨日よりひとまわり大きくなっている。
「うん。そのせいなのか、このとおり、起きたら形も変わっていたんだ」
「ないのは記憶だけ?」
「いや、宝物もなくしちゃった」
「じゃあ、なんにもわかんないね」
「うん。だからきみと話をすれば、なにか思い出すかもしれないと思ってね」
「どうだろう、僕は君のことをよく知らないから」
緑に染まった絵筆を長方形の紙へ走らせる。それは星明かりに照らされて、オーロラみたいにまたたいた。
「魚ってさ、おいしいよね」
「君、貝だよね?」
「いまはそうだけど、たぶん、もともと違うものだった、と思う」
「そっか。早とちりをした、ごめん」
「いや、見てくれがそうだしな。まあそれで、魚には骨があるわけだよ」
「歯に引っかかるから苦手なんだよね」
「おれもそう。骨の抜かれた魚は食べやすい。死んだ後の、食われる魚にとって、骨は不可欠なものとは言えないんだ」
「ふうん」
持っていた筆を水につけて、細い筆へ持ち替える。
「……さっきからなにをしているの?」
「僕が聴いていた音を描いてるんだ」
彼はしようがないなあというふうに、くつくつ笑った。
「おれは音を聴きたいと言ったんだよ」
「僕、音痴なんだ」
「構いやしないのに」
「それに、絵にはすこしだけ自信があるんだ。こっちの方が伝わると思う」
「そうかい、なら気長に待たせてもらうよ」
貝はそう言ったきり、黙り込んでしまった。
多くの色をつくりながら、よく流れていた落葉の歌を思い出す。
静かな貝に身を寄せる。絵筆をふるって、尾根の連なりを彩っていく。
縁には決まって薄い色を足す。そうした方がきっと、飽きが遠のいてくれる。くべられた薪に火をつけるように、朱を足して、夜空を忘れないうちに、紺を添える。
いつでも足元には亡骸の山があったから、底には胡粉。そのうえで一等賞をうたうひとの、紅潮した頬には桃。
染まっている色など問わず、葉は落ちるもの。甲板に出た船乗りが、不意の荒波に呑み込まれるように。だからパステルカラーを散りばめる。
そうして、描き終えたと思う前に、筆はぽきりと折れていた。
目が覚めると、嫌な世界が広がっていた。
かき氷を食べた時の、つーんとした痛みが止まない。
「まだやってるのか」
また苦しくなって、でもやめられなくて、やめたくて。
「根気の問題ですよ」
はっきりとしない意思にも嫌になって、でもぼやけているから諦められない。
「あんたはいいよね」
言葉がくるくる回っていた。掬い方を変えられるほど、遠くにはきていたけれど。それでも、着地点がどこにも見当たらなかった。
日が落ちて、その一日で楽しかったことを思い出す。ここで意外と多いことに気付く。そこまでも繰り返し。
作業をすませて、眠ってみると、やはりあの砂浜にいた。星は昨日より少し明るく、砂浜の輪郭を象っている。ラジカセの電源は切れていて、かわりにさざ波の音が耳をくすぐった。
「おや、おはよう」
貝殻は大きく欠伸をして、かちりと、二枚の殻をぶつけた。今度の姿はふたつに割れた矢じりみたいで、ほのかに色付いた砂浜のうちで浮いて見えた。
「それにしても手が早いね」
「君が気を使ってくれたから」
「そんなつもりじゃなかったよ」
貝殻の横に腰を下ろす。
「しかし、これはなんだ?」
砂に埋もれたキャンバスを覗き込みながら、彼はまごついた。
「伝わらなかったかな」
「いや、図像は分かるよ。谷間にあたらしく山をつくった人の絵だよね」
星明かりに照らされた山々は、秋の味わい。その手前に積まれた沢山の骨と、合間から萌ゆる若葉。
「うん。すごい人たちのつくる音が、ぎゅっと詰まっていたから」
「そうかい」
貝はそっと絵に息を吹きかける。はらわれた砂がさらさらと音をたてた。
「どう、なにか思い出せそう?」
「そうだな、おれが絵描きではないことは分かったよ」
「じゃ、あんまりか」
空を仰ぐと、砂時計。すみで輝くオレンジがやけに生々しい。
「ねえ、きみは悲しい?」
「なにが?」
「いや、だってさ。ラジオってやつ、聴こえなくなっちゃったんだろ?」
「そりゃあ悲しいけど、こうして思い出せて、絵にできる分、まだマシだよ」
「……そうかい」
かちりと、大きく音がなった。なんだと思って横にむきなおると、またかちりと音がなり、貝が一回転した。
「おい、どうしたんだよ」
「いやなに。その、鳴らしてみようと思って。ラジオ」
くるり、くるりと回る貝。かちり、かちりと鳴る殻。
「いま鳴らしたって、ノイズしか聴こえないよ」
「いいんだよ」
彼は勢いに任せてラジカセへ突撃する。倒れ込んだラジカセの、裏にまわって、また一撃。カチリという音ともに、聴きなれてしまったノイズがあたりに漂った。
「はあ……ふう、なんか安心するな、この音も」
「なにがしたいんだよ」
転がったラジオを起き上がらせて、砂をはらい、彼を睨めつける。
「きみの絵を見ていたら、どうしてもスイッチを押したくなって」
「聴こえないよ」
「そうだね。だから、おれは聴こえるのを待とうと思う」
小さな波音がノイズで掻き消えていく。
「初めは、なにか思い出せたらなってくらいの気持ちだったけれど、もう記憶とは別にね、気になっちゃって。そう決めたら、なぜかね、このザーザーという音も無性に聴きたくなった」
かちり、かちり。
……なんだか、馬鹿らしくなってしまった。
「ん、おい、今度はきみがなにする気だ」
彩られたキャンバスに手をかける。きらきらまたた星々を、ついぞうつせなかった絵を。
「あぁー」
ぱきりと、叩き割った。
「思い切るなあ」
「描きたかったものじゃないから」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、ぱあっと空が明るくなった。砂時計の端から青いきらめきが落ちてきて、海に光の道が一本通る。
「ほんとはね、星空が描きたかったんだ。でも、真ん中の人を目立たせたくて、描けなかった。それじゃあ、好きだったあの音は表現できないって、分かってたんだけどね」
「おれにはそれでも良い絵と見えたけどなあ」
僕はキャンバスだったものを放って、貝に手を差しだす。
「なんだい?」
「ラジオのつまみ。あげるよ」
「へえ、そいつはいいや」
彼はぱくりとつまみを飲み込んだ。すると、ぷるると身をふるわせたあと、口を半開きにして唸り始めた。
「ああ、そうかい」
「どうしたの?」
「いやね、なくしたもの、すこしだけ思い出したよ」
貝殻は、宙から降ってくる光を受けて、虹色に輝いている。
「おれ、ほんとは宝物なんてなくしてなかったんだ。最初からなにも持ってなかったんだよ。きみからもらって、足りないものの足りた気がして、それで分かった」
彼は照れくさそうに俯いた。
「恥ずかしいなあ、ないものねだりなんかして」
「つまみなんかで良かったの?」
「なに、これできみの聴いてたラジオを聴けるんだろ? ならいいんだよ」
おおきく深呼吸をしてみる。潮の香りがお腹の奥にたまって、吐き出す息は透明なまま、何にもならず辺りへとけこむ。
「これから君はどうするの?」
貝は砂をかき集めて、ラジオの四隅を固定していた。
「おれは、海にもぐろうかと思う。せっかく貝になったんだし。それで、夜にはラジオを聴きにくる。きみは?」
「僕は、音を流しにいくよ」
「そうかい」
いい音流せたらいいな、と彼は笑った。
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