特別編 第25話 あのね本当は……。 鷺宮友香 ACT 4

「はぁ―」

ため息が出た。


行きつけの喫茶店。この店にはたくさんの思い出がある。

ちょっと無口な髭のマスター。

細身で少し背が高いように見える。


年はお父さんよりちょっと上かなぁ?

白髪交じりの髪の毛がそう見させているのかもしれない。本当の年齢はわからない。


そんなマスターがめずらしく私に話しかけてきた。

「今日は一人なのかい?」

「えっ! あ、はい」

ふいに尋ねられて、動揺してしまった。


「喧嘩でもしたのかい?」

ブルブル、顔を横に振って答えた。


「ははは、そうか。でもたまには喧嘩してみるのもいいもんだぞ。最もそれは喧嘩できる相手がいる時だけどな」

喧嘩できる相手がいる時だけ?

それはどういうことなのか、聞こうとした時。

「ブレンドでいいかい?」

反射的に軽くうなずいた。

にっこりと優しい笑顔が、帰ってきた。

初めて見たマスターのあの柔らかな笑顔。見た目よりこの人はやさしい人なんだろ。


それから、それ以上の会話はなかった。

いつも思う。マスターの淹れてくれる珈琲は、とてもやさしい味がする。

なんだろう。尖ったところがないのだ。

珈琲なのに、と言うと何か変かもしれないけど。

とても丸いんだ。そう言う表現しか私には出来ない。

でも、この珈琲を口にすると、心が穏やかになる。


ここの珈琲も、後しばらくは飲むことは出来なくなるだろう。

治療が始まれば、始めのうちはかなりの制限が出てくる。最も私自身が受け付けなくなるみたいだ。

その前に、この安らかな気持ちになれる魔法の珈琲を飲んでおきたかった。

だから今日は来たのだ。


浩太と付き合いだしてからは、よく二人でここで待ち合わせをした。

席は、空いていれば決まっている。

あの出窓のところだ。


浩太はいつも、スマホで漫画を読みながら私を待っていた。

そんな時、浩太のすぐそばに行っても、スマホから目をそらすことはなかった。

少しは気配で感じてくれ!

たまにそう言いたくなる時もあったけど。


「ごめん、遅くなって」というと。

「うんにゃ、もう少しで切りのいいところだから」

全く! こいつは私よりも漫画を愛しているのか!!

プンとしたくなる。

だけど、憎めないんだ。


そのあとに見せるあの笑顔を見せつけられると。

「ああ、面白かった」

本当に此奴はオタクなんだ。何も悪気はないんだ。ただオタクで、その世界が好きなだけなんだよ。

全てはあの笑顔が語ってくれた。

そう言う人なんだよ浩太は。

そんな浩太が私は好きだ。愛していた。


愛しているんだ。


誰が何と言おうとも……。


全てのことをこの一杯の珈琲で、思い出に変えようとしている自分が今ここにいる。


やっぱりここしかない。

本当はそれを確かめに今日は来たんだ。


空になった珈琲カップを見つめながら私はそう思った。

「おかわりはどうだい?」

マスターが声をかけてくれた。


「お願いします」

なんだかもう一杯飲みたい気分になった。

だから……。頼んだ。


「そうだマスター」

「ん、なんだい?」

「あの、もしご迷惑でなければ……この子置いてもらえますか?」


床に置いていた袋から、小型のプランタに移植した白いゼフィランサスを見せた。

「綺麗に咲かせているね。ちゃんと手入れがされている花だ。ゼフィランサスだね」

「良くわかりましたね。マスターもお好きなんですか? お花とか……」


「いや、僕はそんなに詳しくはないんだけど。僕がよく知っていた人が好きな花でね。『Zephyros』ギリシャ語で西風を意味しているんだ。その由来から花言葉は「便りがある」「期待」などがあるね。でも最も彼女が口にしていた花言葉のたとえは……『汚れなき愛』だったよ」


汚れなき愛。

私たちは汚れてなんかいなかった。

本当に純真にお互いを想いあっていた。


「店内だとあまり陽の光が当たらないから、外においても大丈夫かな」

「ええ、その方がこの子ものびのびとできるでしょう」

「それじゃ遠慮なく」

「ありがとうございます」

「礼を言うのはこちらのほうなんだけどな」

少し苦笑いをしながら、二杯目の珈琲を彼は私の前に置いた。


「あの、マスタ―。……」

「なんだい?」

「ううん、何でもないです。この子のことかわいがってやってください」

「ああ、もちろんだよ。大切に育てるよ。ありがとう」

そう言ってまた緩やかな笑顔を私に向けてくれた。

「なんだか彼女がまた、僕のところに戻ってきてくれたような気がしたよ」

私は思い切ってマスターに聞いた。

「彼女って……。もしかして」

「ああ、亡くなった僕の妻のことさ。もう、思い出の中にしか存在しない。その人になってしまった」

「ごめんなさい。私、……知らなくて」

「いいんだよ。こうしてまた僕のところに巡り会いに来てくれた。それを君が引き合わせてくれたんだ。感謝しているよ」


本当にこの人たちは、このゼフィランサスの花言葉のように『汚れのない愛』をはぐくんでいたんだと思えた。

でも私はこれから自分たちの愛を汚そうとしている。

汚す……。そうじゃないよね。


どうして私がこの花をここに持ってきたのか。それは、私の未練がそうさせたんだ。

本当の気持ちと、これから私が向かう気持ちは正反対のこと。

でもそれでいいんだ。

そうしなければいけないんだよ。


多分さ、辛いだろう。

辛いよ。悲しいよ。


――――――――苦しい。


もしかしたら私は大きな間違いを、これから犯そうとしているのかもしれない。


こんな道しか選べなかった私は愚かなのかもしれない。


彼の気持ち、そんなことはもう考えない。

私は……我儘になる。


浩太、あなたのために。






それから三日後。

私は浩太をあの喫茶店に呼び出した。

いつもの通りに。




いつもの待ち合わせ場所として……。



山田浩太を呼び出した。

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