特別編 第3話 ありがとう。 ACT 3

もういい。やめてやる。

どうせバイトの身だ。


そうだ俺はまだ学生なんだよ。学生の本文は勉学にあるのだ。忘れていけない事だ!

と、さっき付け加えるように「大学もあるし」と、二の次表現をしていたのは何処のどいつだ。


正直逃げたかった。

このまま、ここにいれば人間としての尊厳は崩壊してしまう。

そうなる前にバックレた方がいい。


実際、バックレた人材は数知れない。昨日いたのに次の日にはもういない。そんなのは日常茶判事だ。


その影響を俺がもろに受けているのは一目瞭然だ。

スケジュール表は、まるでテトリスを横にしたように積み重なっていく。

すでにもうゲームオーバーだ。


ま、でも今日はもう来ているんだから、目の前の事はやっていこう。

明日はもう来ない……ぞ!

そう心に誓い、修正に取り掛かった。


何とか今日中。午前0時には間に合った。

送信後、何も返信がない。

そんなもんだ。労いの言葉一つもない。

「はぁ―」とため息が出る。


モンモンとしながら、退勤時間まで作業を進めていく。

俺って真面目だなぁ。

もう嫌気がさしているのに、それでも案件をこなしていく。


ようやく退勤時間になり、身も心もボロボロになっていつもの様に帰宅する。

いつもの事だ。電車に乗ると早朝はまだ混雑もしていない車内の座席に腰を落とすとすぐに意識が遠くなる。

で、決まったように二駅を乗り越し、気が付き慌てて電車を降りる。


ああ、もうこんな生活は終わりにしたい。

相談したところでラチの上がらない先輩と、会社の体質を思うと次第に腹が立ってくる。

もう、本当に行きたくねぇ。

これが最後だ。後はもうバックレてやる。


そう心の中で思い、腹の中でふつふつと湧き出る怒りを抑え込んでいた。

そんな時だ、いつもの様にあの花たちが咲き乱れる、家の庭の前を通りかかった時。


足が止まった。


気にしていた訳でもないんだが、いつもただ、目の中にその花たちの存在があることだけを目に流しいれるだけだったんだが、その日は足が止まった。


で、いい天気なのに、頭上から雨? 水が降って来た。


「えっ?」


この状況を受け入れるのに数秒の間がかかった。その間にも大量の水は俺の頭上から降り注ぐ。

「あ、ははははははははは」

もうその時の俺は、疲労に睡魔。怒りに落胆、いろんなものが渦巻人間崩壊していたんだと思う。


ホースの先端に取り付けられたシャワーヘッドから、勢いよく放たれる水しぶき。身をよければそれで済んでいたんだろうけど、躰はそのまま滝行を行うかの様に頭から水をかぶり続けていた。


そんな俺の姿を彼女は目にして

「えっ? ええええええええ!! 嘘」


慌てて、蛇口のコックを閉めて「ごめんなさァい! 大丈夫ですかぁ?」と声をかけて来た。


「はぁ、大丈夫……だと思いますけど」

とは言ったものの、全身ずぶぬれ状態。


「あちゃぁ―、大丈夫じゃないよねそれじゃぁ」

「いやいや、もういいんです。おかげで目が少し冷めましたから」

「何馬鹿なこと言ってんのよ! 風邪ひくじゃない、ちょっと待っててね」

すぐさま家に入り、家の中から「お母さん、タオル。早く早く!」と声が聞こえて来た。


なはははは、ここまで濡れるといい加減諦めもつくなぁ。

実際もう、どうでもよかった。


「はい、タオルです。まずは拭いてください」

玄関から飛び出してきた彼女から手渡されたタオルを素直に受け取り、とりあえず頭から拭いて行った。

優しい甘い香が洟から抜ける。


濡れた髪をごしごしと拭いていると、覗き込むような視線を投げかけ彼女が一言俺に言った。


「あれぇ、もしかして山田浩太君?」


思わず俺の名を呼ばれ、ふいに硬直してしまった。

何故彼女は俺の事を知っているのか?


「えっと、何で?」

「何でって、やっぱりそうなんだ」

「いやいや、そうなんだって、どうして俺の事知っているんですか?」

「あら、あなた結構有名人なのに、何驚いているの?」

はぁ? 有名人? この俺がか。


「うちの学内じゃたぶんあなたの事知らない人は少ないはずよ」

「学内って……もしかして」

「うん、そうよあなたと同じ大学に行っているの。校内でもよく見かけるんだけど」


「はぁ、そうなんですか。同じ大学って」

その時初めて見た、彼女の顔を。

綺麗な人だった。


長い黒髪を後ろで結い、小さなおでこにスッと通った目鼻。

今日はあの麦わら帽子はかぶっていなかった。

それにだ、こうしてまじかに見て気づくスタイルの良さ。う――――ん、何かを着せれば即コスプレアイドルになれる位いやいや、もしかしたらモデルでもやっているのか。と思わせてしまいそうなスレンダーな感じが俺の顔を熱くさせた。


朝なのに……。


「何ボケッとしてんの?」

「あ、いやなんでも……。でもどうして俺が有名人なんですか? えっと……」


鷺宮友香さぎんもみやともか。教養学部よ」

鷺宮友香、教養学部。俺は知らん。そもそも、うちの大学に教養学部なるものが存在していることすら知らなかった。


「鷺宮さん」ぼっそりと口に出すと「はい」と満面の笑顔で返事を返す彼女。

その顔がなんとも愛らしかった。


何となく胸が苦しい。何故だ。

こうして話してからまだ数分しか経っていないというのに。


「何よ! そんなにまじまじと見なくたっていいでしょ」

「あ、いや、済みません。そんな言意味じゃないんですけど」

「そんな意味って君は何を指しているの? 良く分かんないんだけど」


あ、なんだ俺が考えていることまで筒抜けだったらマジやべぇ。でも、別にいやらしいこと考えている訳でもねぇからいいのか。


いやいや、でもそれは恥ずかしい。

ああああああ、どう収集つけろって言うんだ。

わけわかんねぇ。


「俺ってそんなに有名人だったんですか?」

「あら、本人の自覚無し、なのね」

「まったくです。俺、イケメンでもないですし、今までそんなにモテたことなんかないですよ。いたって普通の学生だと思いますけど」


「そうねぇ、イケメンさんとは言えないわよねぇ。普通よねぇ」

おいおい、少しは色つけてお世辞でも言ってくれるのかと思ってたけど、そう来たか。


「なははは、ごめんねぇ。有名人て言うのは、言い過ぎだったかもでも私たちの仲では結構有名人なんだ君」


「私たちって?」

「ああ、杜木村燈子ときむらとうこって知っている?」

「杜木村燈子さん? えっと知らないんですけど」

「嘘、そうなの? 本当に? それ知ったら燈子へこむなぁ」


へっくしょん!!


「あ、ごめんなさい。本当に風邪引いちゃうね。シャワー浴びて温まって。その間に服、乾燥機にかけておくから。時間大丈夫なんでしょ」


「いや、そこまでしなくても大丈夫だから。俺んちもうすぐそこだし」

「駄目よ。いいから早く!」

「マジ、大丈夫だから、遠慮します。俺、帰ります」


「このまま返したら、私の気が済まないの」

「ホントマジいいっすから」

「だから駄目だって」

「いいって言ってるじゃないですか」


まるで人んちの前で口論していているかのようになりつつあるのに気づき、俺はそのまま立ち去った。


「んっもう、何でいう事きかないのよ! 馬鹿浩太」


馬鹿浩太! 見た目と中身は違うのか。彼女の性格はかなり気が強いんだ。



で、熱を上げてしまう俺が今ここにいる。

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