第108話 あの日から ACT3
青い空にうっすらと筋雲が長く見えるようになる頃、私は毎年その人の所に会いに行く。
私の恩師。
私を絶望の淵から救上げてくれたひと。先生がいなければ、私はあの一歩を踏み出すことは出来なかったと思う。
マンションの部屋を出る時、隣の部屋の雰囲気がいつもと違う事に気が付いた。
そう言えば、昨日帰った時引っ越し業者のトラックが止まっていた。
でもとなりの住人は先日、引っ越していったばかりのはずだったけど。
もう次の人が入っているのかな。意外と早いものだ。
そんなことを想いながら、私は先生が眠る場所へと向かった。
久しぶりに先生の所に行くと、埋もれるほどの沢山の花が、その墓石を包んでいた。
毎年そうだった。
私が行くと先生はいつも花で囲まれていた。
いったい誰なんだろうか? 先生のご両親なんだろうか?
色とりどりの花たちが供えられている。そこに私の花たちも、ひっそりと仲間に入れてもらう。
お線香を焚き、その煙が揺らぎ昇るのをゆっくりと見つめ、静かに手を合わせる。
「先生、来ましたよ」
声には出さず、心の中で先生と会話をする。何となくその声に先生が答えてくれるような気がする。
今でも忘れることなんかない。あの先生の声は……。
「繭ちゃん、あなたは今幸せ?」
「うん幸せだよ」
「本当に?」
「本当だよ先生。あの頃が嘘のようだよ」
消したいんだけど、私には一生消すことが出来ない傷あと。
その傷を私は受け入れ、そして向き合わなければいけない。でなければ今の私の存在がなくなってしまう。この傷があるから、私は先生とこうして向き合う事が出来ている。
「私は今幸せだよ。先生の分も私は幸せにならないといけないんだから。そうだよね。ちゃんと約束したんだからね」
「そうだね」と、先生は返事をしてくれた気がした。
瞼を開けると花の中に何か光るものが目に入った。
そっとそれを手にする。
シルバーの使い込んだライターだった。
「何でこんなものが落ちているんだろうね。先生煙草なんか吸っていなかったのに」
くすっと笑い、そのライターの蓋の部分に親指を当て、上へ押し開けた。
「カチン」と乾いた音が響く。
何だろうこの音、ちょっと懐かしい感じがする。
何でかなぁ。「カチン、カチン」ベランダで、あの人がカチンと音を出しながら煙草に火を点けていた。
あの人って? ……誰だったんだろう。でもさぁ、とても懐かしいね。
その時先生の声が聞こえたような気がした。
「どうして消しちゃったの? あなたにとって、とても大切な人だったのに」
私にとってとても大切な人?
もしかしてその人が落としていったものなんだろうか?
……多分そうなんだろうなぁ。
来ていたんだろうね。
そのライターを私はなぜか手放したくなかった。
煙草なんか吸わないけど、手にしていると気持ちが温かくなる。
「先生、このライターもらって行ってもいいかなぁ」
黙って持って行くのはちょっと気が引けたから、墓石に話しかけた。
だけど、何も声は返ってこなかった。
「やっぱりやめておこう」
そっとそのライターを墓石の前に置いた。もしかしたら落とした人がとりに来るかもしれないから。だから私はそのライターを手放した。
これで……いいんだよね。
喫煙所で煙草を吸おうと口に銜えた時、ライターがないことに気が付いた。
「あれ? 変だなぁ、もしかして落としたか」
どこで落としたんだろう。もしかしたら友香の所か?
銜えた煙草をしまい友香の墓石に向かった。
まったくついていねぇな。
それもこれもこの慌ただしさが原因なんだろうな。
仙台でネット予約しようと目をつけていたアパートの物件。
3件目星をつけていたのが全部満室状態だった。
「なんだよ、だったら満室表示しろよ!」
スマホをギッとにらみ、独り言をどこに当てる訳でもなく発していた。
まったくこんなに急に東京に戻らなきゃいけなくなるなんて、思いもしていなかった。
引っ越しにかけられる時間は3日しかない。
向こうの住居は、なんとしてでも今夜中に仮手配しないといけない。
スマホの画面をに睨み込み、アパートマンション情報を検索するが、俺が求める条件にマッチする物件がだんだんと遠のいていく。
「厳しいなぁ、もうこれ以上は妥協できねぇ。はぁ、やべぇぞこりゃ。マジやべぇなぁ」
その時マリナさんから通話のコールが鳴った。
「浩太ぁ、こっちでの住まいもう決まったの?」
「あははは、まだっす。もうやばいっすよ」
「やっぱりね、そんなことだと思ってたよ。あのさ私の知り合いの所で良かったら紹介するよ」
「マジっすか! 助かります。もう何でだろうか分かんねぇだけど、どこも満室なんですよ」
「ふぅ―ん、そうなんだ。それは大変だよねぇ」
なんか含みのある声だなぁ。マリナさん。でも、もう迷っている場合じゃねぇし。
「不動産屋と私のお勧めの所、詳細送っておくから。ま、早くしないとそこも埋まっちゃうと思うんだけどね」
「マジ助かります」
「ヌフフフ! 明日には契約しに行きなさいよ浩太」
そう言ってマリナさんは通話を切った。その後すぐにメッセージで不動産屋と物件の詳細を送って来た。
物件の見取り図画像に
「ここ私のお勧め! 一押しだよ。広いし、私も泊れるからここにしなさいな」
おいおい、そう言う目的もあるのかマリナさん。
その詳細に目を通した。
「家賃ちょい高いなぁ。それでもこの間取りなら広くて文句なしだ。一人で暮らすのには少し広すぎるかもしれねぇな。マジでマリナさん、俺んところに転がり込みそうだ!」
ネットで予約の出来ないところだった。時間も時間だったから、次の日すぐにその不動産屋に電話をした。なんだか知らんが、話がすでに通っていたのはマリナさんの指金何だろう。しかも即入居可能、ええい! もう迷っている場合じゃねぇし。
「分かりました。その物件抑えていただけますか?」
すぐに新幹線で東京へ向かい契約を済ませた。
一応、物件の下見をさせてもらった。立地的にも申し分のない場所だ。もちろん室内も十分すぎるほど、立派なものだった。
た、助かったぁ。
「それでいつからご入居されますか?」
「ええっと……明日から、なんて出来ますか?」
「ずいぶんと急ですね。大丈夫ですよ。それでは鍵をお渡ししておきます」
さすがマリナさん御用達。あっという間に東京での住まいが決まった。
渡された鍵を受け取り、また仙台にトンボ帰りだ。
しかし何なんだこの忙しさは、本当に慌ただしい。
荷物はもう整理してある。あとは引っ越し業者にこの荷物を運んでもらえばなんとかなりそうだ。
荷物さえ運び出せれば、片づけはゆっくりとやればいい。
そうすればまた、また東京で生活することが出来るだろう。
30を超えた、おっさんの独身生活がまたあの東京で始まろうとしている。
友香の墓石に戻ると。
少し離れたところにその
静かに墓石を見つめ、ゆっくりと歩きだした。
その後ろ姿を目にしていた。
少し赤茶けた髪をした彼女。
髪は背中のあたりまで伸びていた。
ライターは墓石の前に置いてあった。多分彼女が拾って置いてくれたんだろう。
そのライターを手に取り「カチン」と鳴らす。
その音に反応するように彼女の足は止まった。
ゆっくりと彼女は振り返り、その瞳に俺の姿を映し出す。
大人になった彼女の姿が俺の瞳に映った。
時は今まで止まっていたんだ。
いや彼女はあえて、その時を止めていた。
うんそうだよ。
私わざとあなたの事、私の中から消していたんだよ。
ずっと前から知っていた。あなたの事を……。
あなたの存在を。
あの時から、あの日から私はあなたの時を止めていた。
「浩太さん」
こうして、またあなたに出会う事が出来るように。
だって私。きっとあなたに会えると
信じていたから……。
にっこりとほほ笑む「繭」の瞼からは涙が溢れていた。
呆然としながら、俺は繭のその姿をただ見つめていることしか出来なかった。
「久しぶり」
「そうだね」
その後すぐ、繭の姿は俺の視界から消えた。
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