第97話 リセット ACT8
珈琲サーバーがコポコポと音を立てている。
部屋中に香りが立ち込める。
いつも通り、この香りで浩太さんは目覚める。
「おはよう繭」そう言いながら、淹れたての珈琲をサーバーからカップに注ぎ淹れる。
「おはよう浩太さん。今日は休みなんだから、もう少しゆっくりしててもいいのに」
「ああ、でも今日は水瀬の引っ越しの手伝に行かねぇとな」
「そっかぁ、もうすぐだね。水瀬さんアメリカに行っちゃうの」
「そうだな、でも本当に大丈夫なのか心配だ」
「なんだか親が子を巣立ちさせる心境て言う感じなのかなぁ」
繭はクシュッとした笑顔で言う。
「そんなんじゃねぇよ。お前は今日もバイトなのか?」
「うんそうだよ。本当は水瀬さんの所に行って、手伝いたかったんでけどね」
「ま、いいんじゃねぇのか、でも、今彼奴の部屋がどんな状態なのか想像するとちょっとおっかねぇんだけど」
「大丈夫なんじゃないかぁ。水瀬さんなら、いいとこまで片付けていると思うんだけどなぁ。あ、そうだ、どさくさに紛れて下着なんかあさってきたら駄目だよ」
「おいおい、俺がそんなことするか!」
「分かんないよぉ。意外とセクシーなパンティーあったりして、思わずポッケにしまい込んだりしてさぁ」
ニマニマとしながら繭はホレホレと俺を肘で突いた。
「うっせぇ!」
「あ、怒ったぁ? て、ことはまんざら、まったくないっていう事もないんだ。
そう言うの欲しかったら言ってくれればあるよう。持ってこようかぁ」
にヘラと今度は締まりのない顔でニタつく繭。その顔を見ているといつもは和やかな気持ちになれたのが今日はなぜか、胸の奥がチクチクと痛む感じがする。
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ」
「えへへへ、ごめんねぇ。さ、朝ごはん食べよ」
その繭の姿を目にすることが今、俺の日常となっている。
逆にもし繭が俺の前から姿を消したとしたら、……こんな朝の会話も無くなるんだろう。
ふと思う、いつまで許してくれんだろうか。
俺の傍に繭がいてくれることを。
「それじゃ行ってくる」
朝食を食べ終わり、繭は後片付けをしている。
三和土で俺は繭に出ることを伝えた。
「うん、水瀬さんによろしく言っておいてね。……それじゃ」
いつもと変わらねぇ、あの繭の顔が俺の瞼の奥に今日はやけに染みついた。
髪、伸びたな。もう肩超えてるじゃねぇか。さらさらとした少し赤茶けた髪。
にっこりとほほ笑むその顔を、今日はまともに見ていられなかった。
なんだか少し寂しいかなぁ。
水瀬さんがアメリカに行っちゃうなんて。その話を訊いてからもうずいぶん経つのに、その日が近づくたびに寂しさがこみ上げてくる。
浩太さんは言っていた。
「これは水瀬にとって大きなチャンスなんだ。そのチャンスを俺はあいつに攫んでほしい」と……。
そうだよね、いつどんなところでチャンスが舞い込んでくるのかなんて、分かんないよね。そのチャンスをしっかりと攫み取ることが出来るかどうかは、本人次第なんだから。
もうこんな時間だ。そろそろ私も出かけないといけない。
最近は浩太さんの洗面台に基礎化粧品を置いている。また部屋に戻るのが面倒だからだ。でも……何となく浩太さんの歯ブラシと一緒にある、もう一本のピンクの歯ブラシ。2本の歯ブラシが並んでいるのを見ちゃうと、共同生活と言うよりは、もう同棲しているような感じにも思えてくる。
「友香先生ともこんな感じだったのかなぁ」
そんなことを思いながら化粧水をつけ、日焼け止め程度の軽い化粧を施す。
まだ高校生なんだもん、濃い化粧なんてする必要なんてないよ。水瀬さんがそう言いながらくれた化粧品もあと残りわずかだ。
「これと同じ化粧品どこで売ってるんだろう。水瀬さんに後で聞いてみよう。まだ日本にいるうちに」
ドアの鍵を閉め、外に出るとまだ暑く強い日差しが空から降り注いでいた。
もう浩太さんの姿はなかった。水瀬さんのマンションにいるんだろうな。今頃どうしてんのかなぁ。意外と水瀬さん、まだ寝てたりしてね。ま、そんなことはないか。でもさぁ、下着姿で「おはよう」なんて言われたら、浩太さん引っ越しの手伝いじゃなくて別なことで体力使いそうなんだけど。
最近はあの症状も出てこないし、もともとエッチなのは知ってたからね。
そんなことを考えながら歩いていると、私の横に黒塗りのスポーツカーが急停車した。
その車を運転している人。その人をこの目にいれた時、私の体は固まった。
ウインドウが開けられその男は私に話しかける。
「やぁ、繭。久しぶりじゃないか」
その人は私は会ってはいけない人だった。絶対に会う事はこの私が拒否をしている人。
そう、戸籍上の義父、
「なんだよぉ、無視なのか? せっかく父親が娘に会いにやって来たというのによぉう」
恐怖で声が出ない。「助けて……」大声で叫びたかった。でも体も何もかも自由が利かない。
「一体どうしたんだよ。あっそうか、懐かしすぎて声も出ないんだろう」
違う。私は……。
通りすがる人々が何か不審な感じで、私たちの光景に視線を投げかけていた。
「乗れよ」
「嫌!」
「早くしろ! いいのか、お前の隣に住んでいる男。確か山田浩太って言うんだよな。そいつが警察沙汰になってもいいのかよ。いっぱしの社会人が、女子高生と同棲していたなんてばれたらよう。社会的にもまずいんじゃねぇのか」
そ、そんな何で、浩太さんの事知ってんの。どうして。
「言う事訊いてりゃ彼奴には何もしねぇよ」
乗るしかなかった。でも、この車に乗れば多分私は……。
行きかう人の視線が痛い。
車を降りて助手席のドアを開け、私の手を強く握り、あたかも外からは強制されていない様に私を座席座らせた。バタンとドアを閉め。
「いやぁ困ったねぇ。言う事訊かない娘を持つと苦労するねぇ」
わざとらしく周りの人に聞こえるように言う。
娘! それこそわざとらしいんじゃないのか。それに私はあなたの娘なんかじゃない。
私の本当の父親は……。
そしてすぐに車はその場から立ち去った。どこに連れて行かれるのかも分からないまま。
ピンポン水瀬の部屋番号のインターフォンを押す。
「おーい水瀬、来てやったぞぉ」
「えっ、先輩! は、早いですね。今開けます、入ってください」
エントランスのガラス戸が開いた。
部屋のドアを開け、水瀬が出て来た。「ん?」ジーンズにタンクトップ姿。水瀬のその姿を見るの初めてだった。
「どうかしましたか?」
「あっ、いや、なんだそう言う格好もするんだなって思って」
顔を赤く染めながらも「動きやすいんで」とだけ言って、俺を部屋の中に入れた。
部屋の中には引っ越し業者のロゴが入った段ボール箱が積み重なっていた。
何だ引っ越し業者頼んでいたのか。それなら、俺の出番はそんなにないな。
すでに日用品や食器類以外のものは、あらかた段ボールに収められているようだった。
「大分片付いているじゃないか」
ちょっと拍子抜けしたように言うと。
「ええ、まぁそうなんですけどね。ほら、洗濯機とか冷蔵庫とかあるじゃないですか。私一人じゃどうしよにも出来ないですよ」
「そんなの引っ越し業者がやってくれるんじゃねぇのか」
「そ、そうなんですけど……」下を俯きながら、水瀬は小さな声で言う。
「せ、先輩にちゃんとお別れを言いたかった」
「私先輩に、ちゃんとお別れを言いたかったんです!」
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