第98話 リセット ACT9

「私先輩に……」

「何言ってんだ、今どきアメリカに行くくらいで、お別れなんて地の果てにでも行く気なのか水瀬。それにどんなに長くても2年だ。そうしたらまたこっちに戻ってこれるさ」


「……ううん、違うんです。私、今までずっと先輩の後を追ってきました。いつも私の前には先輩とい存在があったんです。だからとても安心できました。だから私は今までやってこれていたんです。でもこれからは、その私の追う先輩はいないんです。もう私、先輩の後を追う事が出来なくなっちゃっうんです」


水瀬は俺に抱き着き、涙をシャツに染み込ませている。


「だから……だからどうしたって言うんだ。お前はもうすでに俺の後なんかついてきちゃいねぇだろ。もうお前は俺の前に出て、自分で道を切り開こうとしているんじゃないのか」


こくんと水瀬は俺の胸の中で頷いた。


「私先輩の事が好きです。……愛しています。でもそれは私が先輩の後を追うことが出来ていたからなんです。私にとって先輩は目標だったんです。先輩と肩を並べられたら、もし私が先輩を超えてしまった時、私のこの想いはいったいどうなるんだろうて、とても不安だったんです。先輩のその先に私が進んだら、私のこのあなたを愛する気持ちは変わることがないのかって。でも私は今よりも先に進みたい。あなたを超えてその先に進んでみたい。その時私はあなたを愛せるか……。ううん。もうこれは愛じゃないだなって……」


「今までのも本当の愛じゃないんだって。ただの私の想い過ごしだったのかもしれない。でも、……でも今の私のこの気持ちは、どうしようにも出来ないんです。今のこの気持ち、それにけじめをつけないと私は多分前に進めないんです」



だから、先輩お別れです。



「私、先輩を超えるためにこの気持ちと別れたいんです」


「……水瀬」

その時だった。

俺のスマホが鳴り響いた。


「山田君、おはようございます。杜木村です」

「おはようございます杜木村さん。どうかされました?」


「あのぉ、今日繭ちゃん具合でも悪くなったの? まだ来ていないんだけど」

「え? そんな今日はバイトに行くって言っていましたよ」


「そうなんだ、連絡何度も入れてるんだけど出ないんだよね繭ちゃん」


そんなはずはない。今朝だっていつもと変わらない様子だったのに。急に具合が悪くなったか、何かったのか。


「すみません俺今、出先なんでアパートに戻ってみます」

「あ、実は今私繭ちゃんのアパートの部屋の前なんだけど、鍵かかってるし人がいる気配ないんだよね」


「とにかく今行きます」

通話を切った。


「水瀬ごめん、繭がバイトに行っていないみたいなんだ」

「繭ちゃんが……何かあったんですか?」


「分かんねぇ、とりあえず俺戻ってみる」

「私も行きます」


アパートに行くと、杜木村さんが繭の部屋の前で待っていた。

「すいません杜木村さん」

「ごめんね、用事があったんでしょ」

「大丈夫です」と言いながら俺の部屋のドアに手をかける。鍵はかかっていた。

繭の部屋の鍵を開けた。


「おい繭! いるのか?」


返事はない。中に入ったが、繭の姿はなかった。俺の部屋の鍵を開けた。

今朝使った朝食の食器が、水切り籠の中に綺麗に並べられていた。


ぽたりと水道の蛇口から水滴が落ちる音がした。


部屋の中には誰もいない。繭の姿はない。

いない。

繭の姿が消えた。


繭はいつも通り店に向かったんだろう。

三和土には繭のスニーカーもなかった。


ここからバイト先まで徒歩でも10分はかからない。

その間に何かあったのか?


「杜木村さんここに来るときに何かありましたか?」

「いいや、特別いつもと変わらなったけど」


おかしい、なんだ、この変な感覚は。


繭が忽然と消えた。繭の姿が俺の前から消えた。何故なんだ。


繭のスマホに電話を掛けた。コール音は聞こえている。だが、聞こえてくるのはそのコール音だけだ。なぜ取らないんだ。


取るのを繭が拒否しているのか? それとも取ることが出来ない状況にあるのか?



居た堪れなくなった俺は駆け出し、繭を街中を繭の姿を求め、探し回った。

「繭、繭……まゆ! 繭!!」

一体どこに行っちまったんだよぉ!!!






スマホは、マナーモードにしてあった。さっきから何度もスマホから振動が伝わってきている。その振動を気づかれない様にカバンをぐっと体に抱きしめていた。


「どうしたんだい? そんなに体を固くさせて。怖いのかい? 俺の事がそんなにも怖いのかい繭」


何も話さなかった。口を訊くことさえも嫌だ。

高速道路。首都高に上がり、車はスピードを上げる。


「ん? 行き先が気になるのか。まぁ君が知らないとこだよ。最近さぁ別荘買ったんだぁ。結構いい物件だったよ。今日はさぁ繭にもその別荘で楽しんでもらおうかと思ってさぁ、郁美いくみも来ているんだよ。久しぶりに親子水入らずで楽しもうじゃないか」


あのひとも来ているところなんて……。


何が親子水入らずよ。私はあなた達とは親でも子でもない。ただの紙切れだけの関係なんだから。


山梨? 道路標識に書かれた案内板に山梨と書かれていた。

視界に富士山が大きく見える。


ウインカーを上げ、車は高速を降りようとしていた。目的地が近いんだろう。

「もうじき着くよ。楽しみだなぁ。また3人でこうして楽しめるなんてさぁ」

口角を少し上げニヤつくその顔を見た時、私の体に鳥肌がたった。


もし、また……また私に何か、あの時の光景が蘇る。


その時は……死のう。あんなことをされるんだったら、私は死んだ方がいい。

生きていたって、もう生きたくない。


生きていたって…………浩太……さん。


目が熱い。


市街地を抜け、次第に建物の数が減り始めた。

山林の中、車は止まった。


「もうすぐなんだけどね。でもさぁ、なんかもう待ちきれないんだよ。繭、お前のその体を忘れることが出来ないんだよ」


手が、私の体に触れようと向かってくる。


「嫌……嫌だって!」


「おいおい、そんなに拒否しなくたっていいんじゃないのか。あれだけお前とはやったんだからさぁ。始めはあんだけ騒いでいたのに、体は正直だったじゃないか。俺とのセックスよかったんだろ。その体にもう刻み込まれているんだろ。久しぶりだからってさぁ、身構えるなよ! お前の体は俺のもんなんだからな」


手が胸を強く掴んでいる。その手を払いのけようとするけど、力の差がありすぎる。次の瞬間私の肩が掴まれた。


「ふっ、綺麗になったな」顔が近づいてきた。嫌だ。もう限界だった。もうこれ以上耐えられない。


舌噛んで死んでやる。


死ねば何も感じなくなる。私が死ねば止めてくれるだろう。

口の中で、舌を歯で噛ませ顎に一気に力を入れようとした時、がしっと、手が私の顎を抑え込んだ。


「おっと、舌噛んで死のうなんて、そんなことしちゃいけないよ。何で素直に受け入れられないんだろうかな。変なことしてごらん、繭。お前の大切な人が困るんだよ。そう困ることになるんだよ。山田浩太と言う奴がお前以上に苦しむことになるんだよ、分かっているんだろうな。繭」


「どうして浩太さんの事を知ってるの」


「なはは、世間と言うのは狭いんだよ。ましてビジネスが絡んでくると異常なほど人との繋がりは密接になってくる。分かるかい、高校生の繭にだってそれくらいわかるよな。俺たちは今、彼奴の会社のクライアントなんだよ。それも大口のな。もし俺たちが彼奴の会社との契約を打ち切れば、彼奴は大きな損害を会社に背負わせることになるんだよ。それに分かっているだろ。お前の実の父親が残した負債を全てきれいさっぱり失くしてあげたのは、この俺たちだっていう事をな」


一気に体の力が抜けた。


全ての体の力が抜けきった。

意識も遠くの木々だけが私の目に映る。


「そうだよ、始めっからそうやって、おとなしく受け入れればいいんだよ」


唇に唇が重なり合う。

激しい息づかいが私の耳の中を通り過ぎて行く。



ガクッとシートが倒された。

手が直に肌を触れ始めた。



「ごめんね……浩太さん。ごめんなさい」



遠くに見える浩太さんのその姿が……次第にかすんでいく。

全てが、すべての世界が崩れ去っていく。


あの時間ときはもう……戻らない。

もう戻ることは出来ないかもしれない。


でも私は抗いたい。

例え……大切な人を失ってでも。

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