第108話 前略、音無椎名と時浦刹那と

 例えばの話をしよう。

 例えば明日、世界が滅びるとしたら───

 君の人生に悔いはないかい?


「椎名先輩」


 夕陽が沈む河川敷。

 ふと聞きたいことができたので、前を珍しくぼんやりと歩く先輩に声をかける。


「……ん?どした」


 少し上の空、ワンテンポ遅れて声は返ってくる。


「もしも……もしも明日世界が滅びるとしたら、椎名先輩の人生に悔いはありますか?」


「ない」


 さっきまでのぼんやりはどこへやら、すぐに答えが返ってきた。

 人生に悔いはない。そう言い切れるのは格好良い。


「どうした急に、悩みでもあるのか?」


 悩みなら腐るほどあるけど。深い意味はない、ただ気になっただけだ。

 

「悩みはないんですけどね。ただ、明日世界が滅びたら嫌だなって。悔いがあるなって」


「そっか」


 案外そっけない。元からか。


「椎名先輩」


「んー?」


 少し話して、喉を動かして。準備運動は終わった、言いたい事を言おう。


「ありがとうございます」


 人前はやっぱり恥ずかしい。だから二人きりの時に、もう一度伝えたかった。


「やめろよ、大したことしてない」


 帰り道に偶然会ってから、一度もこちらを見ない。悩みでもあるのか、だとしたら今度は力になりたい。


「大したことですよ、どうやらおかげで変われたみたいです」


「…………」


 答えは返ってこない。だけどやめろとも言われない。


「憧れます、純粋に、本当に。いつか……いつかそんな人間になりたい。誰かの為に生きて、周りが笑ってくれるような」


「…………」


 いつもみたいな軽口は返ってこない。静かだ、らしくない。


「なぁ、刹那」


「はい」


 椎名先輩はやはりこちらを見ないまま、ゆっくり話し始める。


「少しだけ、昔話をしようか」


 大して昔でもないけど。そう付け加えてポツポツと話し出す。


「元の陸上部は事故があってなくなった。前にそう言ったよな」


「そうですね。優秀な人だったって聞きました」


「あれな、あたしなんだ」


「…………マジですか」


「マジだ。いつも隠してるけどな、足に結構大きな傷痕が残っている。そんで前みたいに走れなくなった」


 椎名先輩は左のふくらはぎのあたりをポンポンと叩く。気にした事はなかったけど、確かに見たことがなかった。

 …………いったいどれほどの喪失感なんだろう、自分の根幹を失ってしまうのは。

 

「ま、なんとかなったよ。欠かさずリハビリしたおかげだな」


「良かったです」


 そうか、この辺でよく会うのは病院が近いからか。

 本当に良かった、無駄にならなくて。きっと努力が報われないのは間違ってる。


「だからさ、自分の為なんだ」


 自分の為……?何の話だろうか?


「自分の為に人を助けてたんだ、他の人もお前も。他の人の為になんて生きてないんだよ、あたしは」


 なんだ、そんなことか。


「大した問題じゃないですよ、そんなの。そんな言わなきゃ分かんないこと、言ったって事実は変わんないこと」


 なかなか下らないことを、重大な事実のように言うものだ。人の悩みなんて他人からみたらそんなもんか。


「そんなこと差し引いても、椎名先輩の生き方は格好良いです。憧れますよ」


 それだけが真実だと思う、少なくとも時浦刹那にとっては。


「生き方……か。なぁ、刹那」


 ゆっくりと振り返る、そこにはいつもの笑顔はなかった。


「お前に何が分かるんだよ」


 強い言葉だ、なんだろうな自分を守るような。


「そうですね。多分、分からない」


 分かんないよ、分かんないけど、だけど。

 分かるんだよ、分かってんだよ、だから。


「つまんない人間なんだよ。刹那が憧れるような人間じゃないんだよ」


 そうかどうかは自分で決める、今更だ。


「本当はさ……本当は……走るのも好きじゃないんだ。怪我した時も、やめる理由ができたと思ったよ」


 きっとこれから始まるのは大事な話だ。

 きっと時浦刹那が抱えるモヤモヤとしたなにかのような。

 音無椎名にもあるんだ、そのせいで上手く生きられないようななにかが。


「でもダメだったよ。親はもうあたしに興味ないけどさ、周りの人間がそう望むんだよ。怪我を乗り越えてまた走り出す、そんな人間が望まれてるんだよ」


「……意外です。椎名先輩は周りの評価なんて気にしないと思ってました」


 落胆じゃない、純粋に意外だ。だけど知らない面を知れるのは悪くない。


「逆だよ逆。あたしは人に必要とされたいんだ。だって……そうじゃなきゃあたしに居場所なんてないだろ?」


「そんなわけない、そんな悲しい事あるわけない」


「だよな、そう言うよな。でもそれじゃダメなんだよ、不安なんだよ」


 あぁ、クソ、なんだってこんなに言葉を知らないんだ。もっと気の利いたことは言えないのか。


「誰かが望むような人を演じて、誰かに感謝されるように動く。それだけなんだよ」


 何を伝えたらいいか分からない。今日も、やっぱりいろいろと分からない。


「なら、ならなんで無愛想な後輩に何度も声をかけたんですか。他の人助けた方が早い」


「病気だよ、病気なんだよ。自分の居場所の為に演じてたそれは病気になったんだ。不必要と言われても、なぜだか手を伸ばしちゃうんだよ。他人の気持ちなんて知らない、自分の為に……「あ、そっか」


「……は?」


 そっか、そうか、なんだ簡単じゃないか。嫌だったのはそこだったのか。


「考えたんですよ、何が嫌なのか。そんでやっと分かりましたよ。ねぇ、椎名先輩。それでいいじゃないですか」


 結構単純な話だ。求められてる言葉か分からない、そもそも求められてるかも。

 だけど、今日だけは分からないは通らない。いや、通さない。

 

「素敵な病気じゃないですか、きっとどうしようもなく優しい。世の中、どんなに言葉を繕っても他人に近づけないし、優しくできない人が多いのに。それを自分の為なんて言えるのは、格好良すぎる」


 本当に名前のある深刻な病気なのかもしれない。だとしたらそれを悪化させてしまうかもしれない。悲しい理由で生まれてしまった生き方だけど。この言葉は本質から外れているかもしれない。

 それでも……だとしても……


「刹那……お前は変な奴だよ、変わってるよ」


「そうですね、最近になってやっと気づけました。椎名先輩にとっては自分の為でも、それで変われた人は、救われた人は大勢いるんですよ、少なくともここに一人」


 一呼吸。願わくばこの言葉が、この気持ちが届くといい。いや、なに願ってんだよ、届かす。


「だからもっと自分を認めてあげて下さいよ。誰かを助けた事に誇りをもって下さいよ。世界で一番格好良い生き方をしている人間が、それを疎ましく思うなんて……悲しすぎる」


 ただ単純に、椎名先輩が少しも自分を認めていないのが嫌だった。

 それが気に食わなかった。


「…………あんま女の子に格好良いとか言うなよな、モテないぞ」


 そんな事、いまはどうでもいい。


「難しいな、難しい事を簡単に言うよな」


 自分でもそう思う。でも、思ったより難しくないはずだ。


「曰く、自分を認めたり許したりというのは、なかなかできないらしいです。だったら他の誰かが認めてやればいい」


 本当に思ってたより難しくない、だってあなたの言葉だ。


「音無椎名の生き方を、時浦刹那が認めますよ。憧れて、追いかけます。だから……自分を信じてやるのも、悪くない」


 言いたいことは言えたと思う。もう少し人と関わってくるべきだった。もう少し、あと少し、言葉を知っていればより深く伝わっただろうか。

 今更だ、必要なのは心とか思いとか、そんなあやふやなものだ。あやふやで大事なものが必要なんだ。


「………………そっか、そっか、悪くないか……」


 繰り返し、噛みしめるようなそっか。いつもよりなんだか意味があるような、それでいていつもどおりな。


「なぁ、刹那」


「はい」


「あたしはその他大勢の、大体の人間が嫌いだよ。自分からは動かないくせに、助けただけは求めてくる。嫌いだよ」


「はい」


「あたしは前の陸上部の奴らが嫌いだよ。タイムもでなくなったし、背が伸びないからって言い訳しても、怪我しても諦めさせてくれない。嫌いだよ」


「はい」


「あたしは今の陸上部の奴らが嫌いだよ。やりたい事ががあるくせに、どいつもこいつも下らない理由で逃げてきて。嫌いだよ」


「はい」


「なぁ、刹那。お前が嫌いだよ。その他大勢の代表みたいな。自分の為にだけ生きて、その為に無意識に誰かを傷つけるような。どうしようもなく独りよがりで、自分だけで生きていけるなんて勘違いしてる。お前が嫌いだよ」


「はい」


「なぁ、刹那」


 傷つくわけない、事実だ。いや、事実だったんだ。


「誰かに感謝されるのは悪くないよ、病気だけどありがとうはいいもんなんだよ。少し前に走ったら気分が良かったよ、諦めたかったけど諦めないで良かったよ。下らない悩みも、当人からしたら大事なものだったよ。もう一度立ち上がれたって、言ってもらえて嬉しかったよ」


 嫌いだって言ったって、それが椎名先輩の本当だとしても、だとしても。

 あんなに暖かく笑える人が、それだけなわけがない。今まではそれに気づかなかっただけだ。


「お前が変わってくれて良かったよ。ついてきてくれて楽しかったよ、部に残ってくれるって言ってくれたのが頼もしかったよ。差し出した手をとってくれたのが嬉しかったよ」


 なんとく似ているところかあったのかもしれない、だとしたら自分で立ち上がって歩いたのはやはり尊敬に値する。


「ありふれた、ありきたりな、陳腐で、今更で、ベタで、テンプレで、普通で、退屈で、月並みで、凡庸で、一般的で、底が知れて、大したことない、珍しくとないし、誰にでも思いつくような」


 きっと椎名先輩も自分ではそう思っていたんだ、それでも誰かにそんな言葉をかけ続けたんだ。


「そんな言葉をかけてくれて救われたよ。どうしようもなく救われたんだ。あたしは自分が思っていたよりも単純だったよ、それで良かったよ」


「きっと……この世界はそんな言葉を望んでるんです。誰かがそんな言葉をかけてくれるのを、誰かにそんな言葉をかけるのを」


「そうだな、人から言われるのもいいもんだ。だからな、刹那。これからもお前が憧れてくれる椎名先輩であるよ。いつかそれが本当になるように生きることにする」


 あぁ、格好良いな……きっとどうしようもなく格好良い。もっと言葉を知っていればこの気持ちを表現できるのに。


「まず手始めに……なぁ、刹那。お前は何が怖いんだ?」


「怖い……?とくに怖いもんなんてないですよ」


 突然どうしたんだ、なんだか吹っ切れた表情でこちらをみながら問いかけてくる。


「ま、そうだよな。なかなか自分のことは分かんない。だから今度はあたしが教えてやる」


 話がみえないな、今度は?あたしが?


「なぁ、刹那。大丈夫だ、悲しいけど世界はお前が思ってるよりもお前に興味はないよ。だから……大した理由もなく人から嫌われないさ、失敗したって誰もお前に失望したりしない、大丈夫だ」


 あぁ……そうだったのか。時浦刹那は人から嫌われるのが嫌なのか、それが怖かったのか。失望されるのが期待を裏切るのが怖かったのか……

 少しだけモヤモヤがはれる。でも全てではなかった、次の言葉を聞くまでは。


「なぁ、刹那。大丈夫なんだよ、お前はそんな簡単に誰かを嫌わないさ。実は口が悪いけどその分優しい、そんな簡単に誰かに失望したりしない。誰かと関わって、誰かを嫌って、そんな自分に失望することもない、断言してやる」


 心の中が暴かれていく、人から嫌われるのは怖い。だけどそれ以上に人を嫌うのが怖い。

 そんなこと……ずっとわからなかった。


「だからもっと人と関わっていいんだよ。誰かの優しさを、誰かの大事さを知ってるお前は人間が大好きなんだよ。悲しいすれ違いがあって誰かと分かりあえなくても、刹那は誰かを諦めないさ、見捨てない。だってそんな言葉を言えるじゃないか」


 言葉が心に染みて、温かい。

 だけど気づくのが遅かった。今までが、これからを許さない。都合がいいと責め立てる。


「今までなんてどうでもいいだろ、これからが大事だ。大丈夫、時浦刹那の今までを音無椎名が許してやる。だから……これからはもっと自分らしく生きろ。うん、それが良い」 


 そんな杞憂は次の言葉で消え失せる。あぁ、うん。


「悪くないですね。誰かの言葉は……許された気持ちになる。悪くない」


「前から思ってたけど、その悪くないってのは嫌いだな。なんだか不満そうだ」


 自分なりの最高の表現なんだけどな。確かに人生に不満があったのかも、なら……そうだな……


「そうですね、ならいい言葉だ。ありふれた言葉は誰かの心を救う」


 シンプルに、いい言葉だ。これなら悪くない……いや、いいだろう。


「それなら良し、悪くないは控えろよ」 


「なんだか泣きそうです」


「ま、嬉しいなら泣いとけ。悲しくて泣くならやめておけ。悲しい涙じゃ強くなれない」


 沈みゆく夕陽が温かく少し眩しい。だけど、それよりも椎名先輩の笑顔が眩しい。やはり笑っているほうが似合っている。


 今まで気づけなかったけど、この世界は良いものだ。 

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