残りものでよければ

柿尊慈

残りものでよければ

「おねーちゃんは、せんせーすき?」

 急な質問に、うろたえてしまう。

 好きって言葉、この歳でも知ってるんだな。そりゃそうか。おそらく一般的に、誰かを好きになることは物心ついたころからの最大の関心事のひとつで、人によっては一生恋愛に引きずられるほどだ。ドラマや小説の中では、恋や愛のために命を落とす人だっている。

「どう見える?」

 やちよの手を少しだけ強く握って、私は答えた。

 自分で認めたくないのと――それがどういうものあまりわかっていないから、誰かにスタンプを押してもらう必要がある。


 小さい頃から、大人の男性が苦手だった。

 保育園では、女性の先生に面倒を見てもらっていた私。小学校で1度、男性の先生が担任になったことがあるが、あれがまずかった。今よりも40センチほど小さかった私には、30代くらいの男性がひどく恐ろしく感じられたのである。剃ったのだろうが、午前中で伸びてきたヒゲ。夏場額に浮かぶ汗。響く低い声。すれ違うと廊下を狭く感じる広い肩幅。重いものはもちろん、男の子たちを軽々と持ち上げてしまうような力。その頃には既に世間はハラスメントにうるさかったのだろうか、その先生は私たち女子に触れるようなことはなかった。しかし――嫌なことをされずとも、怖い想いをすることはいつだってありうる。やや極端ではあるし、何よりその先生には申し訳ないが、存在それ自体がハラスメントだったように感じていたのだろう。その1年は学校に行きたくないと感じることが多く、実際に休んでしまうこともあった。6年間の中で、唯一皆勤賞を獲れなかったのがその年である。

 中学校の頃は、同い年の男の子も怖かった。運動部に入ってる子なんかは特にそうで、群れをなして大声で笑っているのが。夏場、短パン姿でいる男の子たちのむきだしのふくらはぎは筋肉質で小麦色。腕や脚の細い色白な男の子が「キモい」といじめられていたことがあったけど、私からすればゴツゴツした男の子の方が気持ち悪かった。成人目前の今でも、筋肉に魅力を感じるという友人たちの考えには共感できない。

 高校は私立の女子高に進み、同い年の男性を見かけることはほとんどなかった。男性の先生も何人かいたけど、みんな私が恐怖を感じないレベルの小柄な体格。弓道部に興味があったけど、顧問の先生が男性だったので止めた。部活になると、どうしても距離が近くなりやすいからだ。教室にいるときは距離があるけれど、弓はこう持つんだぞ、なんていわれて後ろから指導されようものなら、発狂する自信があった。少し離れたところに共学の県立学校があったから、そこの男の子と交際する友達もいたけど、私はもちろん興味なし。

 とはいえ、男の人に全く関心がなかったわけではない。細身の、モデル体型の俳優とかには、ある程度惹かれていた。けれど――「カッコいい」を求めることがなかったんだと思う。きりっとした表情をされると、その興味も削がれていった。的確に表現できていない気がするが、「細い」だけでいいのだ。強さをアピールする筋肉も、自分を射止めようとする眼差しも、必要ない。

 大学に進んだが、高校と変わらず、女の子ばかりの環境だった。違う学部には何人か男の人もいたみたいだけど、私のコミュニティには男性が存在しない。勉強して――働くことばかり考えて、そのとき誰と暮らすのかとか、そんなことは眼中になかった。だから、恋バナも苦手だ。私のように「苦手」ではなくとも「興味がない」女の子の方が意気が合う。きゃぴきゃぴとした、キラキラした女の子とは、次第に距離を取るようになっていった。


「久しぶり、リエちゃん! ごめん、少しお願いしたいことがあるんだけど……」

 おそらく、母あたりから聞いたのだろう。家に戻ってぼうっとしていたところ、歳上の従姉妹・ハルカさんからメッセージが届いた。小さい頃はハルカお姉ちゃんなんて呼んでいたが、大人になるにつれて会う機会も減ってくると親近感もなくなり、いつからか「さん」付けで呼んでいる。

 今の私くらいの歳で結婚して、子どもを産んでいたハルカさん。彼女は、少し前に離婚をしていた。よくもまあ、一生一緒にいれないような人と、一生一緒にいれるような気でいたものだと呆れる。呆れてはいれど、若干の憧れもあった。男の人を好きになれる――「当たり前」のことができるという点において。

 ハルカさんは、結婚・出産の後は専業主婦として生活していたが、半年ほど前に離婚して子どもを引き取ってから仕事を探し始めたという。しばらく元・夫からの養育費等でつないでいたが、つい先日ようやく仕事が決まったらしい。

 とはいえ、仕事をあまり選んでいる暇もなかったために、幼稚園の迎えの時間までに終業できない職に就いたようだった。ざっくりいえば、彼女の仕事が終わるまで、私の家で娘を預かってほしいというお願いである。大学の附属幼稚園に通っており、何よりその大学こそ、私の通っている大学だった。ほとんど動線上である。授業終わりに迎えに行くのは、そこまで苦じゃない。それに、相手は女の子だし。さすがに小さい男の子まで大の苦手というほどじゃないが……。

「幼稚園の先生には、これからは従姉妹が迎えにいくって伝えてあるから!」

 よくもまあ、私の許可を得る前に幼稚園に話を通したなと呆れる。私が拒否したらどうするつもりだったのか。

 そういえば、従姉妹の娘ってのはどういう呼び方をするんだろう。返信を後回しにして、検索をかけてみる。従姪いとこめいだと、最初に表示されたページが教えてくれた。なんだよ、そのネーミングは。

 そんなわけで私には、従姪のやちよちゃんを迎えに行って家に連れて帰るというルーティンが追加されたのだった。大学入学を機にひとり暮らしを始めていたが、最初に招くのがまさか親戚の子どもになろうとは。


 当たり前だが、幼稚園教諭養成課程に所属しているわけでもないので、附属の幼稚園に来たのは初めてだった。ちらほらとお迎えのお母さんが追い越したりすれ違ったりするが、私よりも歳上の方が圧倒的に多い。

 年末年始に親戚で集まるので、やちよちゃんとは面識があった。何度か一緒に遊んだこともあるので、おそらくすんなり着いてきてくれると思う。

 どうするのが正解なのかもわからないので、とりあえず私を追い越したお母さんのひとりを追いかけてみる。どこから建物には入れるのか、そもそも入っていいのか、何もかもがわかっていない。このあたりのことも、詳しく聞いておくべきだったかもしれない。

 だが、慌てふためく必要はなくなった。例のやちよちゃんが、幼稚園の先生らしき人物と手をつないで出てきたのである。

「おねーちゃん! ひさしぶり!」

 空いてる左手をぶんぶんと振るやちよちゃん。勢いが強すぎて、腕がもげるんじゃないかと心配になる。くせ毛の黒い髪も一緒に揺れていた。

「やちよさん、お姉さんが来てくれてよかったね」

 先生がやちよちゃんに話しかける。やさしい口調。重くない音。だが……。

「――男の人?」

 やちよちゃんに気を取られていて、気がつかなかった。半袖から覗く腕はほっそりとしていて、私の腕とそう変わらない。水色のエプロンをかけているためか、前からでは体格がよくわからなかった。肌の色は白く、なんとなく病院から出たばかりの人をイメージさせる。退院した親戚のお兄さんをやちよちゃんが引っ張っているように見えなくもない。

 ふたりが近づいてきたが、つい身構えて距離を取ってしまう。後ずさった私を見て、男性が少し首を傾げる。まさか初対面の男性に「男性恐怖症的なやつです」なんて明るく言えるはずもなく、足で砂をいじって誤魔化した。

 けれど。

 そんなに、怖いとは感じていないようだった。自分のことなのに「ようだった」というのも、変な話だが。

「やちよさんのお母さんから、お話は聞いています。お忙しいところ、ありがとうございます」

「え、ああ、いえ。どのみち、生活圏内みたいなものですから……」

 ぐりぐりと砂を削る。つま先で「の」の字を書いては消すことの繰り返し。顔が見れない。怖くない男の人は、初めてかもしれなかった。

「やちよさんは、これからお姉さんの家に行くんですか?」

 男性がやちよちゃんに話しかけると、彼女は首を縦に何度も振る。やがて男性から手を離すと、その手で今度は私の左手を掴んだ。

「それでは、お願いしますね」

「ばいばい、せんせー」

 先生が私に挨拶するのとほぼ同時に、やちよちゃんは手を振った。先生もそれに応えて右手をひらひらと横に振る。長い指。じっと見ていたら、催眠術か何かにかかりそうだ。

 ちらりと、男性の顔を見る。タイミング悪く、ばちっと目が合ってしまった。にこりと微笑んで、私にも手を振ってくれる。

 手を振り返す勇気がなかったので、ぺこりと一礼してから家に向かった。どきどきするというよりは、冷えた体を湯船に沈めたときのように、自分の形が溶けて曖昧になったかのような感覚に陥っている。あくまでも心境の問題で、体温にまではその違和感が出ていなかったのだろう。手を握るやちよちゃんは、私の混乱になど気づきもせず、元気よく腕を前後に振っている。

 家を教えていないのに、私より先に進もうとするので、少しだけ早歩きで帰る必要があった。私に比べ背が小さく脚は短いけれど、その分回転数が早いのかもしれない。中途半端に大人になると、コンパスが長くなったのと同時に一歩一歩が重苦しくなって、気楽に歩みを進めることができなくなっているらしい。


 やちよちゃんを家で預かって、しばらくするとハルカさんが迎えに来る。金曜日になると、お土産という名のお詫びの品をもらうことが多かったのだが、いつしかそれを拒否するようになった。ただでさえ離婚したばかりで、しかも新しい職にまだ慣れていない状況なのだから、出費は少ない方がいいだろうから、と。それに、20個とか入った菓子折りをもらっても、ひとりで消化し切れない。結局こっちで預かってる間のやちよちゃんのおやつになってしまうし、なくなるより早くお詫びの品が追加されるので埒が明かなかった。何度か、これをそのまま男性の先生に渡そうかなと考えたことがあったが、開封済みのものを渡すわけにもいかない。

 何よりも――やちよちゃんが帰った後にひとり取り残される私と菓子折り。この光景がとても寂しかった。孤独を分かち合う仲間としては、菓子折りは不十分だったのである。それどころか「あら、私はもう半分になってますのに、あなたは誰にも味わってもらえないんですのね」という声が菓子折りから聞こえるような気がしてしまう。菓子折りに、マウントを取られていた。

 仕方ないじゃん。好きになるはずの対象が、恐怖の対象なんだから。

 あの先生は、怖く感じなかったけど。それがいったい、なぜなのか。見当はつくけど、あまりにも都合がよすぎるし、認めたくはない。どうしてあなたは怖くないのですかと、逆に怖くなっている。自分の中の、調子のいい乙女な部分が、ひどく憎らしかった。


「ああ! お姉さん、こんにちは。今、やちよちゃん連れてきますね」

 幼稚園に着くなり目が合って、例の先生は建物の中に吸い込まれていった。

 社会人なら少し年上だろうに、私のことをお姉さんと呼んでいるのが少しおかしいなと感じながらの、絶妙な距離感。

 彼にとって私は、やちよちゃんのお母さんの親戚のお姉さんだから、たしかにそう呼ばないといけないのはわかってる。やちよちゃんは私のことを名前で呼ばないから、もし先生に私の話をしていたとしても、そのときは「おねーちゃん」という名称で登場していることだろう。そして――私も、この男性の名前を知らないのだ。聞こうと思えば聞くことはできるし、やちよちゃんから聞き出すことだってできる。

 だけど、私はやちよちゃんの家族ではない。私が迎えに行くという習慣もいつ終わるかわからないし、彼女が卒園したら、私は2度と彼に会うことはないだろう。そんな相手の名前を知ったところで、いったい何になるというのか。敷地が同じだからといって、大学生が幼稚園に侵入する口実もない。

 すぐ、会えなくなるのだ。

「お待たせしてすみません。もうすぐ、来ると思いますので」

 男性が出てくる。相変わらず、細い手足だ。見間違いではなかったようである。安心するのと同時に、悲しくもあった。これが、見間違いだったらよかったのに。怖くないと思ったのは気のせいで、やっぱり苦手だと感じられたなら、どれだけよかっただろう。

 誰も遊んでいない砂場を視界の端に捉えつつ、ふたりだけの沈黙が続いていく。聞きたいことはいっぱいあるけれど、聞くべきことじゃないことばかりで、何も言い出せない。

「……やちよちゃんは、どうですか?」

 ようやく絞り出せたのが、その言葉だけ。言葉足らずな気がして、慌てて言葉を繋げた。

「その、家庭環境が大きく変わったりしたので、以前に比べて何か変わったことはあるのかなって。いや、私はそんなに、前のやちよちゃんを知らないんですけど」

 つい早口になったが、先生は言葉の一つひとつに頷いてくれる。頷きと同時に、エクステしたのかと疑いたくなるような長いまつ毛が上下した。開く向きが違うけど、その動きはまるで蝶のようだなと感じる。

「やちよちゃんは、あんまり男の子と遊ぶのが好きじゃないようです。怖がってるというような感じはないんですけど、どちらかというと、興味がなさそうっていうんでしょうか」

 先生が、答えてくれる。

 そうなのか。幼稚園での生活は全く知らなかったから、驚きである。たしかに、あやちゃんだのみかちゃんだの、女の子のお友達らしい名前は聞けど、男の子の名前は聞いたことがなかったかもしれない。

「他の子は結構、誰々くんが好きとか話してるんですけど、そういうのも聞かないので。おうちでは――おうちっていうか、お姉さんのおうちですけど、そういう話はしてるのかなって。……ああ、すみません。聞かれたのはこちらなのに、質問してしまって」

「いえいえ、ありがとうございます」

 頭を下げる先生。手を振って否定する私。

「でも、先生にはよく懐いてるじゃないですか。さすがですね」

 褒めたつもりだ。褒め方がわからなかったが……。綺麗な肌の色や長いまつ毛、細い指を今褒めたところで、不自然すぎる。それに、彼がそれを指摘されて喜ぶかもわからなかった。

「いや、そうでもないんですよ。実はまだ――」

 と、先生が言いかけたところで、パタパタと足音が近づいてくる。建物のドアの向こうで、女性の先生が手を振っているが、顔はよく見えない。やちよちゃんは、そのドアに向かって何度も振り返って手を振る。スピードを落とさず振り返るものだから、私の脚にぶつかった。額のあたりを撫でてあげる。

「おねーちゃん! 帰るよ! せんせーも、ばいばい!」

「はい、さようなら」

 手を振る先生と、奥の女性の先生に礼をして、手をつないで自宅へと歩く。そういえば、先生が私との話で何か言いかけていたが、いつかまた話す機会があるだろう。


「きょうね、かおるせんせーがね!」

 やちよちゃんを預かるようになってから2ヶ月ほど経過した。幼稚園は、もうすぐ夏休みに入る。先生やお友達としばらく会えなくなるから、気合を入れて遊んでいるのだろう。今日は何したという報告の内容が、この頃増えてくるようになった。成長するにつれて覚える量が増えてきたということもあろうが。

 おかげで、先生の名前も出てくるようになった。かおる、か。たしかに、あまり男性らしくない先生には、ぴったりの名前かもしれない。

 体力もついてきて、家の中を駆け回るクセが出てきたので、腕をシートベルトのようにして、体の前に抱え込みながら座るようにしている。拘束しているようで最初はあまり気が乗らなかったが、やちよちゃん本人は制限されているとは思ってないらしく、むしろ心地よさそうだった。

「かおるせんせーが、おねーちゃんみたいにうしろからだっこしてくれてね!」

 思わず、目をぱちくりさせる。そして、顔が熱くなった。あの細い腕で、後ろから抱きしめられたら――。

 ああ、なるほど。まずいな、これは。妄想だ。ありえもしない光景を想像して、満足しようとしている。

「お休みの間、お友達やかおる先生に会えなくて、残念だね」

「そだね!」

 頭をぶんぶんと振って肯定しているが、勢いが強すぎてあまり寂しがっているようには思えない。クレヨンがお絵かき帳からはみ出る。あとで、拭いておかないといけない。それと、そろそろ遊び道具購入のレシートが溜まってきたので、ハルカさんに請求する必要もある。

「夏休みの間は、お姉ちゃんと遊ぼうね」

 幼稚園の先生と違って、ハルカさんに夏休みらしい夏休みはなかった。当然ではある。夏休みというのは結局、学校に通う子どもか働く先生の文化なのだ。もちろん、学生である私もその恩恵を受けている。幼稚園が閉まるから、夏休み中のやちよちゃんは、私の家で過ごす時間が増える予定だ。給与をもらってもいいんじゃないかとさえ思う。そこを請求することはないけど。

「おねーちゃんは、せんせーすき?」

 急な質問に、うろたえてしまう。

 好きって言葉、この歳でも知ってるんだな。そりゃそうか。おそらく一般的に、誰かを好きになることは物心ついたころからの最大の関心事のひとつで、人によっては一生恋愛に引きずられるほどだ。ドラマや小説の中では、恋や愛のために命を落とす人だっている。

「どう見える?」

 やちよの手を少しだけ強く握って、私は答えた。

 自分で認めたくないのと――それがどういうものあまりわかっていないから、誰かにスタンプを押してもらう必要がある。

「おねーちゃんはね、せんせーのことがだいすきだとおもう!」

 大まで、つけられてしまった。

 やちよちゃんのくせ毛を撫でる。もやもやとした自分の気持ちをなだめるように。

「やちよはね、かおるせんせーのことすきだから、おねーちゃんのこと、おうえんするね!」

 だからの使い方が、間違っているような気がする。

「そっかぁ、ありがとねー」

 そういえば先生は、やちよちゃんは男の子の友達に興味を示さないと話していた。それはきっと、先生のことが好きだからだ。先生しか見えていなければ、同い年の男の子の友達に興味なんか沸かないだろう。後ろから抱きしめてもらえるなら尚更だ。

 先生に、会えなくなってしまう。

 そもそも、色々と望みがないのはわかっている。向こうからすれば私は、保護者のようなものでしかない。やちよちゃんの卒園と同時に会えなくなるし、こういう休みが挟まったときも同様だ。

 ようやっと、最後にもらった菓子折りが空っぽになった。やちよちゃんを抱いていた腕を解いて、箱を畳んでいく。

「また、私の勝ちですわね」

 箱の声が聞こえる。私も彼女も同じ空っぽだが、彼女の方は求められた故の空っぽだ。全くの正反対。

 ゴミ箱の方へ投げる。ゴミ箱にぶつかると、ごとんと音がした。やちよちゃんがびっくりするが、すぐに髪を撫でて安心させる。物にあたってみても、何にもならないというのにな。

 この娘には悪いけど、やちよちゃんを抱きしめたところで心地よくはなれなかった。私はあの細い腕の抱擁と、まつ毛のまたたきを感じたいと思ってしまっているのだから。


 大学の最寄りからひとつ隣の駅。このあたりでは大きめなショッピングモールがある。中央に公園があって、扱っている商品・サービスごとに分かれたいくつかの建物が、それを囲うように建設されていた。おそらく私の方が早く生まれていて、ここの歴史は10年と少ししかない。実家に住んでいたころは、今よりもここから離れていたから、それこそ大型連休のときに車で20分くらいかけて買い物に来たものだが、ひとり暮らしのおかげでその距離が近くなると、いつでも行けるためにありがたみが薄れていて、結局来ることがなかった。

 特に何か買いたいものがあったわけではない。けれど、ひと駅なら散歩レベルの距離だしと、水分補給に気をつけながらとことこ歩いて、やちよちゃんを連れてきた。やちよちゃんも過去に何度か来たことがあったようだが、気づくとテナントが変わっているので飽きることはない。前は何があった、何がなくなった。そんな話をしながら、買い物をするでもなくただ建物を巡る。

 ひとりだと片側を空けるエスカレーターも、やちよちゃんを隣において、手をつないで上り下り。高校生や大学生と思われるカップルを何組か見かけるが、彼らは上下違いに乗っている。子どもは隣、恋人は前後。奇妙なルールだなと思う。いや、もしかしたら隣り合っているカップルもいるのかもしれないが。

 時期によって、公園は催事場のようになっていて、この1週間は辛いものフェスを開いていた。とはいえ、辛いものばかりではなく、冷たくて甘いものも端の方で販売されている。ちょうど、花火大会の屋台のようだ。単価が安いわけではないので味はもちろんのこと、思い出として残しておく意味合いが強いだろう。

 ほぼ埋まっているベンチの中から空いている場所を見つけて、ふたりで並んで座る。ソフトクリームが日差しで溶けて、甘い香りが、漂ってきた。舌で舐めたりかじりついたりして、忙しそうにやちよちゃんが食べている。私はそれを見守りながら、ハルカさんに請求するべくホームページのスクリーンショットを撮影した。レシートなんてもらえないことが多いので、ウェブに情報が上がっているうちに証拠として保存しておく必要がある。合わせて、がんばるやちよちゃんも撮影。これで、何を買ったかと、それがいくらだったかの証明ができる。

「やちよちゃんと、お姉さんじゃないですか」

 聞こえるはずのない声が聞こえて、暑さでやられたかと自分を疑った。太陽をにらむべく顔をあげると、少し離れた場所に、先生がいるのが見える。


 そして、彼の隣に――ひとりの女性が立っているのも見えた。

 くらりとする。暑さのせいか、ショックのせいか。いや、どっちだっていい。どうだっていいじゃないか、もう。

 女性の方にも礼をする。急に視界がぼやけたようで、はっきりとその顔が見えない。とびきりの、美人であってくれ。そうすればもう、何も希望をもたなくて済むじゃないか。

「おねーちゃん、あげる!」

 やちよちゃんから、たべかけのソフトクリームを押しつけられた。つい受け取ってしまったが、だいぶ食べ進んでいたため、食欲をそそる形状は既に保たれていない。お祝い事の際に使うクラッカーのようだ。ヒモはついていないし、何も飛び出すものはないけれど。

「かおるせんせー!」

 ソフトクリームをくれたことで手ぶらになったやよいちゃんは、ベンチから立ち上がって先生の方に走っていく。

 そして彼女は――女性に抱きついた。

 抱きついてもらえなかった先生は眉を少し下げて、困ったように私に笑いかける。


「文具とか折り紙とか、そういったものを買い出していまして。このあと幼稚園に置いてこようと思っていたんです」

 私の隣に、先生。さらにその奥には、多き目のビニール袋が置かれていた。風が吹いて、かさかさと音を立てる。

「そしたら、僕の方が置いていかれちゃったんですけど」

「そう、でしたか……」

「お姉さんはやっぱり、やよいちゃんを預かってたんですか?」

 顔が見れず、足元に視線を落としたまま頷く。

「えらいですね」

「いえ、そんな……」

 先生と一緒に歩いていた女性は、いつだかドアの向こうで見かけた女性の先生だった。

「――おふたりは、お付き合いをされてるんですか?」

 恐る恐る、そんな質問をぶつけてみる。

「いいえ、まったく」

 涼しげな顔で先生は答えた。

「ルーレットアプリで、ランダムに選ばれたふたりです。当然ですが手当てもありません。費用はもちろん、請求できますけど」

 少し襟の開いた、水色のシャツ。そこから伸びる腕。夏なのに、長袖だった。どうやら、日焼け対策らしい。

「いつか言いかけたことなんですけど、僕、やちよちゃんに名前覚えてもらってないんですよね。というか、男性の名前を覚えてないといいますか……。園長先生はえんちょーせんせー。私は、せんせー。それ以外の男の子は、あのことか、このことか」

 かおる先生は、あの女性の先生だった。やちよちゃんを普段見てくれているのは、どうやらあのかおる先生だったらしい。

「迎えに行くと、いつも先生が出てきてくれるので、てっきり先生が担任というか、担当なのだと……」

「迎えに来るのは女性の保護者だけじゃありませんし、何かトラブルが起きて胸倉をつかまれることもありえます。保護者じゃなくて不審者、ということもありえますから、建物の外での対応は僕の仕事なんです。最悪刺されても、他の先生より体がしっかりしてますから」

 今目の前を通り過ぎていく中年主婦たちの方が、よほど耐久力が高そうだけど。そんな言葉を飲み込む。

「まあ、刺されるためにこの職についてるわけじゃないんですけどね。こればかりは仕方ないかなって。適材適所です」

 やちよちゃんは、かおる先生を連れて「でーと」に行ってしまった。必要な買い出しは済んでいたらしいので、私はかおる先生と子守を交代している。用済みになった私たちふたりは、こうしてふたりの気が済むのを待っているというわけだった。

 幼稚園の先生とバッタリ会ったので、少しだけ遊んでもらってます。

 一応、ハルカさんにメッセージを送っておいた。事後承諾もいいところだが、私が無理矢理押しつけたわけではなく、やちよちゃんが自分の意志でかおる先生を選んだのだから、全責任を押しつけられるようなことはあるまい。既読はついていないが、そのままスマホを閉じる。

「同じ学校を出て、幼稚園教諭になった男性の知り合いが他のところで働いていたんですけど、去年辞めてしまったようで」

 先生が、話し始めた。ぼうっと、遠くの方を眺めている。遥か向こうに見える駐車場。停まっている車の上部が、熱で揺らめいていた。

「この職、男性は少ないので、肩身が狭いんですよね。彼は、先生方からのハラスメントを受け続けて、ばっきりと折れてしまったようです。僕もやちよちゃんに名前覚えてもらえないし、やっぱり向いてなかったかなぁとか、思うことが多くなって」

 私としては先生のことが知れていいのだけれど、そういう話は子どもの関係者にしていいものだろうか。そんな気持ちを込めて、少しだけ横顔に目線を送る。

「ふふっ。あんまりこういうこと、話したらいけないんでしょうけど、お姉さんが保護者じゃなくて保護者代行だからか、気を抜いてしまいました。今の言葉は、秘密ですよ」

 先生が唇の前に、自分の指を立てた。図らずも、ふたりの秘密ができてしまったようだ。

「……私、小さい頃から男の先生が怖くて」

 秘密だからといって、何の反応も示さないのも違う気がする。

「でも、先生は初めて、怖くないなって思ったんです。自分の先生じゃ、ないんですけど。で、怖くないって逆に怖いな、なんて思って、だからもっと知りたいって、思ってたんですけど――」

 励ますつもりが、なんか余計なことまで言った気がするし、収拾がつかなくなった。

 けど、とりあえず今知りたいことっていったらさ。

「そういえば私も、先生の名前、知らない……」

 ここで、言葉が尽きた。

 先生はぽかんとしている。やってしまったかもしれない。

 しばらくして、先生が笑った。笑ってくれた、が正解かもしれないが。

「まだふたりも戻ってこないと思いますし、少し、このあたりを一緒に歩いてみませんか?」

 彼女たちに対抗して、デートってことで。先生がつけ足す。

「やちよちゃんに選んでもらえなかった、残りものでよければ、ですけど」

 恥ずかしそうに笑って、先生が立ち上がる。シャツの裾が揺らめいて、水でできたカーテンみたいだなと思った。そんなもの、みたことないけど。あるとしたら、たぶんこういうやつ。

 なるかわかんないけど、いい雰囲気になったら、連絡先でも聞いてみようかな。もちろん、名前を知るためという口実で。

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残りものでよければ 柿尊慈 @kaki_sonji

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