名まえも知らない
渋谷の雑踏が似合う見覚えのない女性だった。
世界の全部を見透かしたような表情で、どこでもないどこかを見つめながら、煙草を吸っている。
「世界の終わりみたいだと思って」
「冗談じゃないよ。これは世界のはじまりだよ」
そんな捉え方もあるのか、と感心してしまった。年老いて現実ばかりに意識が向くようになったせいか、どうも思考の全てが終着を目指してしまう。
案外ぼくは世界の終わりを望んでいるのかもしれない。
「現実の最後にあるのは飲み込まれそうな静寂なの」
世界を知り尽くしたような表情で言い放つ。
分かるようで分からなかった。ただ彼女の瞳が一瞬怯んだ。
「この写真から音が見える?」
彼女は軽蔑するような視線でぼくを確かめた。差し出したスマホの画面には見向きもせず、興味がない、といったふうで、目の前の渋谷に視線を戻す。
当たり前だけど写真には音は残せない。写真の中の渋谷は、あまりにも終わりだった。目の前にある渋谷が微かに呼吸してるのも奇跡に思える。
「あたしさ、音楽やってんの。これから超売れて、オリンピックで国歌斉唱すんだから。勝手に終わらせないでよね」
「ははは。おっきい夢だなあ。サイン貰っておかないと」
ぼくも昔は汚いライブハウスで騒音に近いなにかを必死に叫んでいた。熱気なのか煙草の煙なのか分からない混沌とした場所で、めちゃくちゃな青春を歩んだ末路がこれだ。
「だから。そういうのやめてって。このまま誰にも認められないで終わるみたじゃん」
冗談めいた茶化し表現は嫌われる。これは老害の初期症状である。
「これでも若いころはミュージシャン目指してたんだ」
「へえ」
次の煙草に火を点けながら感情を殺しているようだった。
「どんな音楽やってたの?」
無関心な声色に大人げなく苛立ちを募らせながら静かに答える。
「ブルース。おっさん臭いか」
「あたしブルース好きだよ。超かっこいいよね」
ロックしか似合わない彼女が予想外に目を輝かせた。
先入観だけで話をしている自分が恥ずかしかった。なりなくない大人になったもんだ。
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