AfterStory 海月

 ぼんやりと優しい光に照らされた水槽の中を、半透明の傘がゆらゆらと浮いている。

 その不格好ながらもどこか完成された不思議な生き物を見ていると、ふと彼女のことが頭をよぎった。


 「私、海月好きなんだ……」と呟いて、そっと水槽に浮かぶ傘にかざした手は、水に溶けてしまいそうなほど透き通っていて。誰よりも綺麗なその瞳を細めて、頬を緩ませた。

 海月だけが知る、彼女の表情。

 それを見れた時、これ以上の幸せはいらないと、本気で思った。


 「……ゆうくん?聞いてる?」

 けれど、隣には別の、確かな幸せがあって。

 「ああ、ごめん。聞いてるよ」

 だから俺はまた停滞を選び、空返事をした。




 10月某日。西日が眩しい頃。

 街がハロウィン一色に染まる中、俺は季節外れの残暑を鬱陶しく思いながら柚羽の到着を待っていた。

 「━━この水族館でハロウィン限定イベントがあるらしい。海月の展示が綺麗なんだって」

 数日前、適当にネットを漁っていたところ、たまたま見つけたハロウィン仕様の海月の展示に惹かれて、彼女を水族館に誘った。

 特に理由はないが、何故か海月は好きだった。いつからなのか、何がきっかけだったのか、はっきりとは思い出せないけれど海月が好きだった。

 だから、ただ海月が見たいという理由だけで水族館に行きたいと思った。海月が好きな理由がわからなくても、水族館に行く理由は確かにあったのだ。

 久しぶりの水族館ということもあり、ワクワクしながら海月の画像をググっていると、パタパタとこちらに誰かが駆けてくる音がした。

 「おまたせ〜。ごめんね、待った??」

 小さく、されどやや乱れた息遣いでほんのり火照った顔でこちらを見上げる女の子。

 若干焼けた肌、ぱっちりとした目、目鼻立ちはハッキリしており、焦げ茶色のロングヘアをゆるふわっと編み込んだハーフアップにしていた。

 ウエストリボンが可愛いえんじ色のニットにグレーのロングスカートを合わせた、落ち着いた大人の休日コーデ。

 綺麗だ、という言葉が思わず口を衝いた……が、ボソッと言ったので彼女には聞こえていないようだった。

 「ああ、小1時間くらいな」

 「……嘘ばっか」

 軽く頬を膨らませ、すぐにプッと吹き出してクスクスと笑う彼女を横目で見つつ、無言で手を差し出して、行こうか、と目線で伝える。

 彼女、柚羽との付き合いにも慣れてきて、互いの扱い方のようなものもわかってきた。

 ちなみに俺は雑な扱いを受けてます。はい。

 それでも、なんだかんだ言いながら冗談に付き合ってくれる彼女との時間は、とても居心地のいいものだった。

 間違いなく、俺にとって欠かせない大切な存在になっていた。

 そんな小さな、いや、大きな幸せを噛み締めつつ歩みを進めていると、やがて水族館の入口に辿り着いた。

 前売りで買ってあったチケットを使い中に入る。

 静謐で薄暗い室内には、エアポンプが立てるコポコポという音と、水の香りだけがある。

 「水族館じゃないみたい……」

 彼女がポショリと呟いたその言葉の通り、どこかの高級オフィスにでも来たかのような感覚だった。

 各水槽をゆっくりと眺めながら奥へと進んでいくと、一際大きな水槽が現れた。

 「わっ!サメだ!ねえ、ゆうくん!サメだよ!サメ!!大きいなぁ……」

 自分の倍近くあるサメに遭遇し、今日一興奮しているご様子で俺の肩をバンバン叩く。

 「本当だ。確かにこりゃでかい。誤って足でも滑らせたら食われそうだな……」

 「ちょっと、怖いこと言わないでよ」

 ご丁寧にコメント申し上げると、ジトっとした目をこちらに向けてご不満のようだった。

 うーん、こういう時どうやって同調するかって結構難しいよね。軽いうんちくでも披露しておくか……。

 「サメには生殖器が……」

 「その話もなし!」

 「えー……」

 雑学披露だけが取り柄なのに……。

 こんな時「彼女」なら、ちゃんと最後まで聞いた後に「ふーん。そっ」と素っ気なく流しつつちょっと意地悪な笑みを浮かべるのかな、なんて少し思ってしまった。

 得意技のPPをゼロにされた俺は為す術もなく、「次行こ」と先導する彼女の後を寂しく追った。


 テンション高めの綺麗系乙女柚羽ちゃんと、雑学披露のタイミングを失った悲しい男はその後、チンアナゴの食事を見たり、鳴き声をあげるペンギンを見て下らないナレーションを付けたり何なりしつつ水族館を存分に楽しみ、ついに本日のメインイベント、海月の展示コーナーへとやって来た。

 「海月だ!綺麗〜」

 ゆらゆらと揺れる海月を見つけると、彼女はこれまでのハイテンションとは一転、柔らかな微笑みを浮かべながら水槽の中に惹き込まれていた。

 「ああ、そうだな」

 そしてそれは俺も同様で、ただ水中に浮かぶ半透明な傘に見とれていた。

 パッと見無機質なその生物は海で見つけてもビニール袋と間違えそうで、けれど傘を上手に使いながら水中を浮遊するその姿は、不格好ながらも確かな命が宿っていた。

 その命に触れようと手をかざす。

 すると、ある光景がフラッシュバックして自身の行動と重なった。


 「海月って不思議だよね。不格好だけど綺麗で、確かに生きてる」

触れたら溶けてしまいそうな手をかざし、彼女、汐里が吐息を漏らす。

 「私、海月好きなんだ……」

 そう言って笑顔を見せた彼女は、狭い水槽を舞う海月よりもずっと綺麗だった。

 彼女が見せるその表情が、大好きだった。

 海月は、彼女のその顔を引き出してくれる。

 だから━━。


 ━━だから、俺は海月が好きなんだ。

 海月が好きな理由は、ほんの些細な幸せだった。忘れかけていた、「大好き」だった。

 不意に顔がほころぶ。

 ああ、俺は今、あの表情が出来てるかな。

 思い出の濁流に呑まれて、目頭が熱くなる。

 「━━くん。……うくん!ゆうくん!!」

 涙が溢れそうになった時、隣で自分の名前を呼んでいる存在に気付いた。

 「ゆうくん、聞いてる?」

 そうだ、今の俺の幸せは、彼女だ。

 紛れもなく、彼女の存在は俺の幸せなのだ。

 だから余計に、心を他の人に奪われていたなんて言えない。一瞬とは言え、隣の幸せを忘れていたなんて、絶対に言えない。

 それが、過去を過去に封じこめて、停滞することを望む選択肢だってことがわかっていても。変わることを教えてくれた、「大好きな彼女」への裏切りだとしても。それでもまた、停滞を選び……

 「ああ、ごめん、聞いてるよ」

 空返事をしてしまった。

 「そっか……」

 刹那ではあるが、寂しげな表情を見せた彼女はそれ以上何かを言うことなく、おもむろに歩き出した。

 けれど、停滞を選んだ俺の足は動かない。

 一歩、また一歩と彼女が離れていく。

 変わる決意をしたのに、少しは変わったと思ったのに、想像以上に変化のない自分に虫唾が走り、頭がぐわんぐわんと揺れる。

 その時だった。

 カツーン、とヒールの音が館内に響き、彼女が振り返った。

 いたずらっぽい笑みを浮かべた後、口を開く。

 「来年、また来ようね。それまでには絶対、絶対に、ゆうくんを私でいっぱいにするからね!」

 そう言って、ニヒッと笑ったその顔はまるで無垢な少女のようで、俺はその表情に恋をした。

 全てを浄化するように、一筋の涙が頬を伝った。

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白い髪飾り 三越 銀 @Gin_Mitsukoshi

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