第13話 解
「━━私、告白されたんです」
静かだ。とても、静かだった。
「え……」
だから、声とも吐息ともつかないその音も館内によく響いた気がした。
水中に浮かぶ海月が水を蹴る音すら聴こえてくるようだった。
「幕張の帰りにサークル仲間が、好きだって」
その水槽を見つめる柚羽さんの横顔は息を呑むほどに綺麗で、どこか寂しそうだった。
時計の針がゆっくりと時を刻んでいた。
突然の告白に言葉を失った俺は、ただひたすらに柚羽さんの息遣いに耳を澄まし、次の言葉を待つことしか出来なかった。
すっ、と小さく息を吸う音が聴こえた。
彼女の唇が僅かに動き、リップグロスがきらりと光る。
「彼……告白してきた人は、悪い人じゃないんです。いや、凄く良い人です。私には勿体ないくらいで、本当に驚いて……」
訥々と語り出した彼女の瞳をぼんやりと眺めて、一つ一つの言葉を解いていく。
「聞いた時、初めは告白を受けようと思いました。でもなんでか“はい”って言葉が出てこなくて……。だからまだお返事はしてません」
彼女の穏やかな口調に、ドキリとする。
でもここまでの話を聞く限り、その中に今日俺を誘った答えは無かった。
コクリと頷き、続きを促す。
「私、わからないんです。自分の気持ちが、……わからないんです。だから踏み出せないんです」
柚羽さんが一旦言葉を切った。
先程とは違い、ふっ、と短く息を吐くと「少し話は変わりますが」と前置きをして再び口を開く。
「2年前に、一度だけ彼氏がいました。優しい人でした。……でも優しいのは私にだけではなかったんです。たまたま他の女の人と手を繋いでいたのを見てしまって、お別れしました。彼が照れ笑いを浮かべたのを見た時、目の前が真っ暗になって……」
柚羽さんが、口元をキッと引き結ぶ。
「それから好きって気持ちがよくわからなくなって……。だから恋愛も出来なくて。それでも神宮がありましたし、寂しいとは思いませんでした。優雨さんとも仲良くなれて、最近は野球を見に行くのが更に楽しみになってました」
「でも前回の観戦はあまり楽しめなくて、何でかわからなくて、モヤモヤして。……私は自分の気持ちがわからないです。でももしかしたら逃げてるだけかもしれないって思って……。あの日、幕張で感じたものを確かめたくて、今日優雨さんに会いたかったんです」
柚羽さんが感じたもの、それは当然俺にもわからない。この世で一番わからないのは、人の心だ。それは時に自分自身の心にすら当てはまる。だから人は、話を聞きたいと思う。話をして、その反応を見たいと思う。共感を得ようとする。
もしかしたらその行動は、人の気持ちを理解するのではなくて、自分の気持ちを確かめるためのものなのかもしれない。
「会って、お話を聞いて、優雨さんがあの方のことを本当に好いているのがわかりました。それで……、だから、私は……」
「少しだけ、僕に時間をください」
だとしたら、彼女のためにも、俺も自分の気持ちを確かめる必要があると思った。
行く場所は決まっている。
あの場所で、耳を澄まして、心の声を聞きたい。
ただ無言で、電車が線路の継ぎ目を通る際に鳴らす「ガタン」という音を聴いていた。
池袋から東横線直通副都心線に乗り込み、それはそのままみなとみらい線にも繋がる。
『まもなく、みなとみらい、みなとみらいです。お忘れ物のございませんよう、ご注意ください。出口は、左側です。The next station is……』
みなとみらい。
ここには、俺の記憶が刻み込まれている。だから確かめるならここだと思った。
電車を降りて、エスカレーターを上り外に出ると、薄暮の空が広がっていた。
街灯や建物には明かりが灯され、みなとみらいの幻想的な夜景を作り出している。……いや、正確にはまだ夜景とまではいかないか。
そして、一際目立つ明かりが一つ。
コスモクロック21。
世界最大の時計付大観覧車。
「観覧車に乗りましょう」
久しぶりに柚羽さんに目を合わせて、告げる。
彼女は、コクッと小さく頷くだけだった。
観覧車に乗り込んでからしばらくの間は、二人して外の風景をぼんやりと眺めていた。
今度は俺が話す番だ。俺が口を開かない限り、この沈黙は続くだろう。
急にみなとみらいに連れてこられて、訳も分からず観覧車に乗ったであろう柚羽さんは、されど一切急かしたり目線で促したりすることはなく、柔らかな笑みを浮かべて窓の外を見やる。
覚悟を決め、すーっとゆっくり大きく息を吐いた。そして口を開く。
「昨年の冬、ここで彼女に告白しました。……いや、しようと思いました。でも告白を文言さえ言わせてくれませんでした。彼女の方は僕の気持ちを知っていて、付き合えないと、はっきり言われました」
「えっ……」
久しぶりに柚羽さんと目が合った。
戸惑いの表情。雰囲気が、続きを促す。
「フラれちゃったんですよ、僕。ほんと全然……ダメでした」
「じゃあどうしてあの日、幕張に……?」
「そこは僕自身、わかりません。あの日はライブで幕張メッセに来るから少し会えないかって言われて、ちょっとだけお茶をしました。でもたぶん好きとかそういうのじゃなくて、ただ構って欲しいんだと思います」
「構って欲しいって……」
「うん、構って欲しいんですよ。たぶん。彼女は基本的に僕より大人なんですが、それでもやはり幼いところはあって、嫌なことがあると自分を肯定してくれる人に過剰な程に縋るところがあるんです。僕が彼女のことを絶対に責めないのをわかっていて、甘えているんだと思います」
「それは……好きとは違うんですか?」
「僕もずっとそうだと思ってたんですよ。でも違いました。あの日はっきり、恋愛対象として見たことはないと言われました。たぶん本当なんだと思います。彼女にとって僕は、愚痴もわがままも文句を言わずに黙って聞いてくれる都合良いお兄ちゃんなんですよ」
観覧車はまもなく頂上だ。
赤レンガを照らすオレンジの光が見えた。
あの時とは全く別の風景な気もした。
「……優雨さんは嫌じゃないんですか?切なくないんですか?好かれることはないとわかっていて、都合の良いお兄ちゃんでいることが」
「僕は彼女のそういうところが好きなんですよ。僕よりずっと大人なのに、確かに幼いんです。長男だからですかね?手を掛けるのが嫌いじゃないんです」
思わず笑みが零れてしまう。
優しい笑みだ。
それと同時に、頬を冷たい……いや、なにか温かいものが伝った。
これは雨だろうか?
……優しい、雨だ。
「優雨さん……今、私、やっとわかりました。自分の気持ちが、やっと……」
その瞬間、柚羽さんの頬にもひと雫伝った。
まるで雨上がりの太陽に照らされた花のように美しい、満面の笑顔だった。
「僕はやっぱり、自分の気持ちがわかりません。今は、彼女とこの観覧車に乗った時とはまた違う気持ちなんです。でも一つだけ、わかる事があります」
ゆっくり大きく息を吸って、双眼で穏やかに柚羽さんの瞳を見つめる。
「好きかどうかはわかりません。でも、柚羽さんを誰かに取られるのは嫌です」
柚羽さんの瞳から、今度は溢れんばかりの涙が零れ落ちた。とても優しい雨だった。
「……はい!」
その笑顔は今日見たどの表情よりも、どの笑顔よりも綺麗で、あの日の汐里と同じくらいに、……それよりもっと、世界で一番綺麗だと思った。
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