第11話 不変と不明
「あの女の人と知り合いなの?」
そう問う汐里の眼差しが、槍のように俺へと突き刺さった。
目を見ることが出来ず、視線を泳がす。
「いや、あの子は……」
「あ、やっぱりなんでもない!ここまででいいよ。ライブ行ってくるね。今日はありがと!またね」
しかし彼女は、突き刺した槍をすぐに抜き取り、一気にまくし立ててパタパタと走っていってしまった。
ごめんね、と小さくこぼして……。
あの日から数週間。
久しぶりに神宮に足を運んだ。
試合は順調に進んでいたが、俺の意識は別のところにあった。
この前、海浜幕張で偶然すれ違った女の子は今日もライトスタンドのいつもの場所に座っていた。
背番号5のホームユニフォームに身を包み、髪はうなじの上あたりでゆるふわっとお団子を作っている。白い髪飾りがアクセントとなって大人かわいい印象を受ける。
でも、いるのはわかっていても今日はなかなか話しかけられないでいた。
柚羽さんは綺麗な人だ。普通に考えて、多少人気があるのは当たり前のことだと思う。
そもそも俺なんかが、球場内だけとは言え、知り合えてるだけでも贅沢なことだ。
それに別に好きとかそういうわけではない。例えそうだとしても、俺なんかが彼女のすることにとやかく言う権利はない。
でも、ならば何故こんなにも釈然としないのだろう。
━━俺なんか。
封じたはずの言葉が、胸中に溢れ出す。
気付けば試合は、終盤に差し掛かっていた。
彼がいるのはわかっていた。
でも今日は、話しかけて来ない。
私も彼の方を見ることが出来なかった。
“あの女の子”のことが気になる。
なんで気になるのか、わからない。
わからないけど、どこかモヤモヤしてしまう。
━━別れたんじゃなかったの?
そんな声が、心の奥底から聞こえてくる。
これは私の声なの?
わからない。
彼は球場で仲良くしてる男の子に過ぎない。だから別に彼が何をしようと私には関係ない。
ならば、直接訊いちゃえばいいのに。
それはわかってるのに、身体は動かなかった。
『試合終了でございます』
ウグイス嬢のアナウンスがあって、皆が一斉に傘を開いた。
『勝利投手は━━』
快調な声でスワローズの勝利を教えてくれる。
ヒーローインタビューも終わり、応援団による二次会が始まるという頃、明日も早くから学校があるのでという理由で観戦仲間たちよりも早く帰路に着いた。
観戦仲間のうちの一人は、今日とて売り子さんと話すために大量のビールを飲んでいてベロベロだった。ちゃんと帰れるかしらん。
そんな心配事もしつつ、やはりウエートを占める一番の悩み事はあの日のことだった。
結局話しかけることは出来ず、試合が終わってしまった。彼女はいつも早めに帰るし、もう球場を出たあとだろう。
自分の不甲斐なさに呆れてしまう。
俺なんか、自分の中にいる自分の手が届かない俺が毒を吐く。
汐里にフラれた日、絶対に口にしないと決めたその言葉が胸中を埋めつくし、吐いてしまえと脅してくる。
━━逃げちゃダメ。
変わらなきゃいけないという思いが、俺の手が届かない自分と必死に闘っていて、その流れ弾がどんどん心に突き刺さっていった。
「優雨さん!!」
だからその声は、穴が空いてボロボロになっていた心を埋めていくようだった。
振り向くと、走ってきたのか少し息を切らして顔を紅潮させた柚羽さんがいた。
「あの……あ、今日勝ちましたね!!」
そして続けたのは、いつも通りの会話。
「快勝でしたね!柚羽さんもいらっしゃってたんですね!」
しかし、いつもと違うのは不意に飛び出した嘘。明らかに何かを避けた、中身のない言葉。
「そうなんですよ〜。今背中が見えたので、ご挨拶しようと思って」
「わざわざありがとうございます」
確信も理由も何も無い。でも、嘘のような気がした。いや、こっちが嘘をついているから、彼女の方を同じ土俵に上がらせようとしているだけなのかもしれない。だとしたら最低だ。
でもぎこちなさは存在していた。
「今日はお帰り早いですね」
「明日学校が早くて……」
生じた歪はなかなか元には戻らない。このまま何かを避け続ければ永遠に交錯することはないだろう。
「あの……」
「では、ここで失礼します」
そこまでわかっていて、わかった上で逃げた。俺は最低だ。何も変わっちゃいない。
決意ってなんだろう。確かにあったはずの意志が、今では幻のようだ。
弱い自分が腹立たしい。
そうやっていつも腹を立てるだけで何も変わらない自分が、この世で一番嫌いだ。
「あの!!!」
背を向けて歩き始めた俺は、二度同じ声に振り返った。
「今度の日曜日、会ってくれませんか?」
「……え?」
そしてこの世で一番わからないのは、人の心だ。
夜、汐里から電話がかかってきた。
『ゆうちゃん聞いて!!』
向こうが話す内容は、いつもと何ら変わらないもの。
でも俺の方は上の空だった。
━━今度の日曜日、会ってくれませんか?
突然の事で驚いたのと、単純に予定なんてあるはずがないので勢いで誘いを受けてしまった。
冷静になって考えてみると、正直さらに意味がわからない。
意識は完全にそっちの方にあった。
『ゆうちゃん?今日どうしたの?なんか反応悪いけど』
「あー、いや、別に大丈夫」
『隠すの下手すぎ。なんかあるでしょ。言いなよ』
「いや、なんて言うか、今度出掛けることになったんだよね……」
『……は?そんなこと?いいじゃん別に。……あ、待って。……あの女の人?』
「……まあ」
頭が回ってなくて、言われるがまま話してしまう。話してから、しまったと思った。
あからさまに汐里の声色が変わっていた。
数十秒、いや、実際には数秒だろうか。沈黙が続いて、一つ彼女の吐息が漏れる。
『……嫌だ』
「え?」
『なんか……嫌なの』
この世で一番わからないのは、人の心だ。
「いや、意味わかんないんだけど……」
『私だってわかんないよ……。わかんないけど、……なんか嫌なの!!』
珍しく少し息遣いが乱れていた。
またひとつ、わからないことが増えていく。
『行かないでよ……』
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