第6話 みなとみらい

 気付くと、空は一面濃紺に染まっていた。

 街を照らす光が眩しくて、宇宙の遥か彼方から僕たちの目に届く光は殆ど見えないが、その代わり大きな満月が一際存在感を示していた。

 ━━月が綺麗ですね。

 かつて夏目漱石が『I love you』をそう訳したそうだ。それは、日本人であればきっと誰もが知っていて、だからこそ純粋に月を見て出た感想が齟齬を生じさせることがある。

 ……いや、そう思うのは単なる妄想かもしれない。うん、間違いない。今隣を歩く彼女が好きだという気持ちが、その前提が、何でもない「月が綺麗だ」という言葉さえも色付けするのだろう。

 ならば、それは酷く独りよがりで傲慢な意味付けだ。だから━━

 「今日は月が綺麗だな」

 「うん。そだね……」

 だから、敢えて表現を変えず、端的に事実を述べたその言葉を選択した。

 その先に続く言葉を飲み込んで……。



 中華街を出て、先程来た道を戻る途中、山下公園にて暗闇に浮かぶ炎に足を止めた。

 炎に照らされて朱く染まる汐里の顔を横目で見ると、興味津々といった様子で目を見開いていた。口も開いていて、阿呆っぽい。

 「何かやってる!こういうのなんて言うんだっけ?ファイアウォール?」

 「それセキュリティシステム」

 「フェニックス?」

 「それ不死鳥」

 「アーケオプテリクス?」

 「それ始祖鳥。もう最後はボケだろ……。むしろなんで始祖鳥なんて知ってるんだよ……」

 「いやぁ、それほどでも」

 「褒めてねぇよ。……いや褒めてるよ。何言おうしたんだっけ……。ああ、ファイアーパフォーマンスな。アーケオプテリクスに呑まれるところだったわ」

 最後までツッコミを入れた俺を褒めて欲しいよ……。と心の中でボヤキつつも、手を口元に当ててクスクスと笑う汐里を見ると、公言する気にはならない。かわいいは正義。

 視線を曲芸士へと移し、しばしそのパフォーマンスを楽しんだ。

 ジャグリングを応用した技を多く披露し、時には観客に手伝いを頼んで芸に参加させることで飽きさせない工夫もしていた。

 選ぶフレーズ、一挙手一投足が全て興味を惹くように計算されているように思え、どの界隈においても道を極めた者は尊敬に値する武器を持っていて、そしてその魅力を十分に伝える努力をしているのだろうと想像すると、肺腑が抉られた。

 では、俺はどうだろうか。

 ふとそんな自問が頭をよぎった。


 「たっくさん遊んだね……」

 「だな」

 山下公園でファイアーパフォーマンスを見た後、コスモワールドへと移動して、お化け屋敷やらミニゲームやらスプラッシュマウンテン擬きやらをして遊び回った。

 ちなみにバニッシュはやっぱりやってなかった。

 「最後にさ、あれ乗ろうよ」

 汐里が指差した向こうに見えるのは、コスモロック21という、世界最大の時計付大観覧車だった。

 みなとみらいの夜景には欠かせない、横浜のシンボルのひとつでもある。

 高所恐怖症である俺は正直乗りたくなかったが、汐里と2人きりになれる唯一の場所だと思って同意した。

 覚悟を決め、観覧車へと乗り込む。

 「わぁー!!凄いよ!!見て!!綺麗〜」

 わー、とか、へー、とか言葉にならない音をしばらく発していた彼女だが、4分の1を過ぎたあたりでこちらの方を向き、口を開く。

 「今日1日、楽しかった。ありがとね」

 そう言って浮かべた優しい笑みは、嘘ではないことを、そっと、教えてくれた。

 「俺もだよ。今までで1番楽しかった。肉まんの美味しさが、それを証明してる」

 「肉まんの味は変わらないでしょ」

 「いや、変わるんだなそれが」

 「そうかなぁ……」

 馬鹿じゃないの?と呆れた様子で呟き、彼女は再び外へと視線を戻した。

 きめ細やかな白い肌はやはり触れたら溶けてしまいそうで、艶のある黒髪は横浜の夜を照らす眩い光を呑み込む。彼女の大きな瞳を通して見た夜景は、これまでに目にしたあらゆるものよりも美しいと思った。

 この時間がずっと続けばいいのに。なんて、世界一馬鹿げた願いを抱いてしまう。

 「……話があるんだ」

 けれど、時間は止まらない。

 永遠は、どこにも存在しないのだ。

 時間は有限だからこそ、ある瞬間に訪れた、もう二度と見れないかもしれない“それ”を、美しいと感じるのだろう。

 「……ん」

 観覧車は、頂上に到達しようとしていた。

 俺にとって、今この瞬間世界で一番美しい彼女が自らのコートの裾をギュッと握り、小さくコクリと頷く。

 そして、

 「俺さ、ずっと━━」

 「━━あのね、ゆうちゃん」

 俺の言葉を遮り、彼女が口を開いた。

 突然マイクを奪われた俺は、わけがわからず、動揺で言葉を失う。

 用意していた台詞は、もはや宇宙の藻屑と消えた。何も考えられない。

 しかし彼女は、汐里は、想定通りとばかりに落ち着いた様子で、おもむろに言葉を紡ぎ出す。

 「私ね、ゆうちゃんには感謝してるんだ。私が辛い時、いつもゆうちゃんは助けてくれた。何も訊かず、いつもどおりに接してくれて、だから安心出来たんだ」

 その内容は、とても温かいもので、

 「私が間違いを犯しそうな時、怒ってくれたこともあったよね。あの時、ゆうちゃんに救われてなかったらどうなってたかわかんないや」

 綿のように柔らかく、

 「本当に、ありがとね。そして、ごめんね」

 俺を締め付けた。

 「ごめんね……ゆうちゃん……」

 何も起こらなかった。

 何も起こさせてくれなかった。

 優しい言葉の後には、何も残っていない。

 「え……なんで……」

 どれも俺を肯定する言葉ばかりなのに、帰着点は俺を地へと叩き落とすものだった。

 「なんで……」

 意味がわからない。問うことしか出来ない。

 放心状態のまま、次の言葉を待つ。

 「ゆうちゃんのことをそういう目で見たことはないんだ。ごめん」

けれど、続いたのは三度謝罪だった。

 「……そっか」

 俺にはもう理由を尋ねる気力も残っていない。やっとの思いで格好つけの一言を絞り出し、俯く。

 やはり、最初から俺なんかが手を出していい相手ではなかったのだ。

 そう、勝手に悟った。その時、

 「今ゆうちゃん、何を納得したの?」

 「え?」

 急に語気を強めた彼女に呆気に取られる。

 「私、理由も何も言ってないよね。ただごめんって言っただけ。今、何を納得したの?」

 「いや、やっぱり俺なんか━━」

 「それだよ!」

 キッと俺を睨みつけ、汐里が声を荒げた。

 「いつもいつも俺なんかって、卑下するばかりで勝手に納得しようとする。好きなら……好きならさ、もっとあなたの魅力を教えてよ!!それじゃ何も伝わらないじゃん!!」

 汐里は拳を強く握り、肩で息をしていた。

 俺は、もの凄い剣幕でまくし立てる彼女に何も言い返すことが出来ない。

 「珍しく何か伝えようとする時も、回りくどい言い方で保険をかけてさ……」

 もっともだ。

 でもそれは、俺もそうしたくてしているわけではなくて、

 「それは、何度も言ってると思うけど、俺は人が信じられないから━━」

 口を挟まずにはいられなかった。

 「……はぁ。またそれ?」

 しかし彼女は、いつものように「そうだよね」とは言わなかった。

 それどころか、心底呆れたとばかりに冷たい目で俺を見据える。

 「信じられない信じられないって、いつまで過去を引きずるの?いつまでそうやって言い訳して、過去から逃げるの?辛いのはわかるよ。よくわかる。でもトラウマの原因になった奴らのせいで、自分の人生がずっと縛られるのは嫌でしょ。私は……、私はね、変わったよ。ううん、正確には、環境を変えたの」

 「自分は変われなかったから、周りを変えたの。全部変えた。それで、本当の自分と見つめあった。いつまでも、逃げちゃダメ」

 いつの間にか、彼女の瞳には温かさが戻っていた。その瞳は、俺の心をも透き通した。

 「言ったでしょ。私、ゆうちゃんのこと結構わかってるんだと思う」

 髪を耳にかけ直しながら、今日一番の笑顔を見せた彼女は、やはり世界一綺麗だった。

 立てば芍薬

 座れば牡丹

 歩く姿は百合の花

 そのことわざが似合う人に、初めて出会った。

 「ありがとう」

 俺が純度100%の感謝を告げると同時に、観覧車の扉が開き、係の人に降りるよう促された。

 時間は止まらない。

 永遠など存在せず、時は一定のリズムで終わりに向かって刻まれていく。

 しかし有限だからこそ、人は一瞬に身を焦がすのだろう。有限だからこそ、刻み込んでいくのだろう。

 そして、留まることが出来ないから、歩むしかない。一歩ずつ、ゆっくりと進むのだ。

 過去から逃げず、不確定な未来へ━━。


 俺は、人生初の失恋を、みなとみらいの夜景と共に深く心に刻んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る