第3話 キッカケ
何かを得るためには、何かを犠牲にしなければいけない。この世の中は等価交換だ。多少の満足感の代わりに差し出すものがコレだと言うのならば、神はなんて残酷なのだろう。
帰り際、複雑な思いを胸に、無理矢理な笑顔を彼女へと返した。
9月上旬。明治神宮野球場。
スワローズは順調に負けを重ねていたが、今日も俺は応燕に来ていた。
見慣れたビハインドスタート、毎回の拙攻。ある者はため息を漏らし、ある者は野次を飛ばし、ある者はそれでも声を枯らして声援を送る。
そんな多種多様なスタイルで観戦するファンをぼんやりと眺めながら、先程売り子さんから買い受けた烏龍茶を口に含んだ。
毎年8月から9月にかけてのホームゲームでは、5回終了後に花火の打ち上げがある。
ちょうど今、そのカウントダウンが始まった。
「「「ごー!よん!!さん!!!」」」
ダンスチームPassionの掛け声に合わせ、スタンドの観客がカウントし、その時を待つ。
ひゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜…………
夜空に大輪を咲かさんと、その種が上空へと昇っていく音を背中に受けながら、財布を巾着袋に入れて持ち、席を立った。
ドーーーーーーーーーン!!
次々に花開く夏の風物詩には目もくれず、『じんから』を売っている売店を目指した。
その道すがら、いつもの場所に目をやる。
━━いた。しかも今日は1つ通路を挟んだブロックの最前列に座っている。
焦げ茶色の髪の毛を頭の上で丸めてお団子ヘアにしており、少しばかり雰囲気が違う。
向こうもこちらの存在に気付き、微笑んで軽く頭を下げた。俺も会釈で返す。
最前列に座っているなんてチャンスは滅多にない。今日こそ話しかけようと必死に話題を探すが、悲しいかな、こういう時に限って脳がだんまりを決め込む。つまりフリーズ状態。
せいぜい思いつくのは「鳥」と「烏」の漢字の違いについてくらいだが、こんな話一切興味ないだろう。
だから今日もいつも通り。特に何も無く、ただ目が合うと挨拶を交わすだけの関係。
気付かれないように嘆息し、足早に前を通り過ぎようとする。
と、
「あ、あの!」
なんと向こうから話しかけてきた。
上目遣いでこちらの様子を伺っている。
嬉しい。大袈裟だが、俺にとっては青天の霹靂という具合だった。
「はいっ!!」
だから声が裏返るのは仕方の無いことだ。……仕方の無いことだが、恥ずかしいことこの上ないので矢継ぎ早に次の言葉を探す。
すると、彼女の方が先に次の言葉を発した。
「あの、財布、いつもそれに入れてるんですか?」
「へ?」
予想外の質問に、また変な声が出てしまった。
「いえ、いつもそれに財布を入れて歩いているので。純粋に気になって」
彼女が俺の手元の巾着袋を指さしながら、質問の意図を説明した。
「あー、たぶん知ってると思いますけど、これいつだかのイベント特典的なので貰ったので、使わないのも勿体ないですし、財布だけ入れて持ち歩くのに丁度いいので使ってます」
「そうなんですね!秋吉選手ですか。私は廣岡選手でしたよ〜!!」
そう言って彼女は、自分の手持ちバッグの中から廣岡の背番号がプリントされたユニフォームの形を模した巾着袋を取り出した。
初めて見る彼女のハニカミ顔に思わずこちらも笑みがこぼれる。
正直言って、声も顔もタイプではないのだが、この笑顔を見ると幸せな気持ちになるというか、楽しい気持ちが伝染するようでとても気分が良い。
もう少し柔らかい印象だったのだが、実際話してみると意外にもお茶目な人なのかもしれない。
楽しいと、素直に思った。だから俺は自分の人見知りを忘れて、自然に話を繋ぐ。
「いつもこの辺にいますよね。ホームゲームは毎回来てるんですか?」
「うーん、毎回ではないですけど、大体は来てると思います。好きなんです。球場が」
口元を手で隠し、小さく笑った彼女は、眩しそうにグラウンドを見つめた。
「良い球場ですよね……」
「ええ、本当に……」
花火の音も聞こえない程に静かで、ゆっくりな時間が流れているように感じる。
その時、ポケットのスマホが鳴った。
確認すると、女の子の写真のロック画面に観戦仲間からの「私の分の唐揚げもお願いしていいですか?」というメッセージが表示されている。
「では、そろそろ唐揚げ買いに行くので」
視線を彼女に戻した時、なんとなく先程より表情が曇っていた気がしたが、気のせいだろうと特に気に留めず別れの挨拶を告げた。
「はい。呼び止めてしまってすみません。またご挨拶しますね」
「こちらこそ。……あ、最後にお名前だけ訊いてもいいですか?」
「柚羽(ゆずは)です」
「僕は優雨(ゆう)です。是非また。今日、勝ちましょうね!」
「はい!」
最後はチームの勝利を共に願って、その場を後にした。
少しイメージとは違ったが、良い人で良かったと思う。何より話せたことが嬉しい。
図らずも頬が緩んでしまい、席に戻ると観戦仲間に訝しげな目で見られてしまった。
終盤に逆転し、クローザーがマウンドに上がり勝利へのカウントダウンが始まった頃、またもやスマホがメッセージの受信を知らせた。
送り主は、汐里。
『そうなんだ笑笑』
「……またか」
メッセージに既読をつけず、すぐにスリープ状態にしてスマホをポケットにしまう。
最近、汐里の返答が単調だ。
「笑笑」とか「wwwww」とか「へえ〜」とか。今回はまだマシな方だ。
その原因はなんとなく勘づいている。
デートに誘ったことで、俺の気持ちを確信したんだろう。今までは流れで会う約束をしていたが、今回は違う。少なからず改まった空気を感じたはずだ。
あれで何かに気付かないなら、鈍感だろう。
汐里は元々鋭敏だし、もしかしたらこれは暗に恋愛対象ではないと俺に伝えているのかもしれない。
いや、そうでなくても、多少なりとも恋愛的な好意を抱く相手にする返信ではないことは確かだろう。
ネガティブ思考の沼に引きずり込まれる。
「彼女」やスワローズの勝利を目前として舞い上がる心に影を落としていく。
結果がほぼ目に見えていても、この気持ちを伝える必要はあるのだろうか。いや、本当に好意がないのであれば、今までの思わせぶりな行動や言動の数々はなんだったのか。
考え得る可能性を、一つ一つ消去し、しかしそこで生まれる新たな可能性や矛盾は無限にあり、最悪のスパイラルに陥る。
━━どうしていつもこうなんだろう……。
思考が完全に心に巣食う悪魔に蝕まれる直前、球場を包んだ大きな歓声で現実へと意識が引き戻された。
巨大スクリーンには『Win!』の文字が踊る。
勝ったのだ。
でもいつものように勝利を喜ぶことは出来なかった。自分の贔屓するチームの勝利なのに、それがとても遠いもののように感じた。
球場を後にする途中、目が合って晴れやかな笑顔を浮かべた彼女に、俺は無理矢理の笑顔を作った。
このシーズン、彼女とは多少の会話を交わすものの、特に何があるわけでもなくオフを迎えた。
スワローズは、96敗を喫して最下位。
歴史的大敗だった。
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