60食目 氷の約束

 やっぱり労働の後のお風呂は最高だわ!


 お店の夜の営業も終わり、マーガレットとジルの後にお風呂に入らせてもらった。体は温かく、血のめぐりが良くなったので気持ちがいい。ほかほかと体から湯気が立ち上るくらいに温まっている。

 なんだか、近頃はお風呂を楽しみに生きている気がする。しかし女の子なら旅の途中であろうと清潔でいたいと思うのは自然なことのはず、と思う……がやはりのんびりしすぎだろうか。


 さっきお湯は温め直したし、ノエルもゆっくり出来てるといいけど。


 私の後にはノエルが続いて入浴中だ。こうして毎日お風呂に入れるのは、この家の素晴らしいところだと思う。

 マーガレットの話しでは、魔石に頼らない燃焼効果の高い木材を使い、費用を抑え、地下からの湧水を直接引けるように建築されているらしい。浴室の隣には湯沸かしの汽缶と薪があり、室内から温度調節ができる。火事にならないのは汽缶が防炎加工の特殊素材で作られ、煙も室内に漏れないからだという。


 他所の住居ではこのような作りは見られないとマーガレットは言っていた。確かにここまで手の込んだお風呂は見たことがない。

 つまり、この家はお風呂特化型住居ということだ。家主のこだわりを感じる。


「……おい」


 聞き慣れたぶっきらぼうな声かけに振り向くと、ジルが腕を組んで立っていた。何だか怒ってるように見えるが、たぶん怒ってる訳ではない。数日一緒に過ごしてみて、怒ってる時とそうでない時が何となくわかるようになった。


「ジル、どうしたの?」


 お風呂から出たばかりなので髪を布で拭きながら話す。長い髪は乾きにくいのが欠点だ。


「ちょっとこっちにこい」

「えっ? あっ……!」


 突然私の腕を掴んだと思うと、調理場の方へ引っ張られた。思わず布を落としそうになりながら付いていくと、荒っぽく椅子に座らせられた。

 全く説明がないので彼が何をしたいのかわからない。ただ、意味もなくここに連れてくると思えないのでとりあえず彼の誘導に従った。


「ほら、これやるよ」


 そう言われて目の前のテーブルに置かれたのは白い器に入った薄黄色のやや半球状の物体。匙も一緒にくれたので、これですくって食べるもののようだ。


 見たことのない食べ物だわ。甘い香りがするけど、お菓子なのかしら?


「あ、ありがとう。食べてもいい?」

「あぁ」


 短く答えたジルは立ったまま私の一挙一動を観察しているように見えた。私は緊張しながらお菓子と思われるものに匙を差し込んだ。

 柔らかく、一部がやや溶けているようにも見える。


 どんな味なのかしら……香りはすごく優しくて甘さを感じるけど。


 恐る恐る匙を口に入れると、予想もしていなかった感触と味わいが広がった。


「―――冷たい! これ、冷たいお菓子だわ! それに卵と乳の味……甘くていい香り!」


 冷たくて柔らかい食感は繊細で、口の中ですぐ溶けてしまう。それなのに卵と乳の優しい甘味が広がっていく。甘い香りは口に入れた方がよく香って、幸せな気持ちにさせてくれる。


 すごい、こんなの食べたことがない!


「―――おいしい!! とっても! もしかして、今日作ってた卵を使ったお菓子ってこれのこと?」

「そうだ、焼き菓子とは全く別物……言うなれば氷菓子だな。店には出してないから感想が欲しかったんだ。……でも良かった、あんたが美味しいって言うなら間違いない」

「うんうん、この美味しさは保証するわ。どうやって作ったの?」


 私は氷菓子をまた一口食べる。この優しい甘さと冷たさは癖になる味だ。


「そうだな……簡単に言うと、砂糖と生乳を冷やしながら混ぜて作るんだ。水で冷やすだけだと足りないから、こうやって……」


 ジルが右の掌を上に向けると、白っぽい小さな結晶のようなものが渦巻いて天井に舞い上がった。小さな白い粒が私の頬に当たって、冷たさと引き換えに水に変わる。


「ひゃっ……! もしかして、氷……? 魔法で冷やしたの?」


 ジルは氷の魔法を使えるのね。確か水属性魔法の応用よね、どうやってるのかそっちも興味深いわ。


「あぁ、これぐらい冷たさを維持しないとこれは作れない。氷はそれなりに貴重だしな、魔法で冷たくするのは効率的とは言えないが……まぁ今はこんなもんでいいだろ」

「すごいわ! 水の魔法でこんなに綺麗な氷が作れるなんて!」

「氷というか、雪だな。北の地方じゃよく見られるけど、冬季はたまに王都やこの辺りでも降るぜ。もしかして、雪を見たことがないのか?」

「雪、これが雪……えぇ、見たことないわ。だから、ジルが見せてくれた雪が初めてよ。すごく綺麗だわ」


 私は宙に舞う粉雪を掴んでみた。頬に当たった時と同じように、冷たさを感じたと思うとすぐに手のひらでじわりと水に溶けてしまった。


「そうか……じゃああんたの王都での用事が終わったら一緒に見に行くか」


 ジルの思わぬ誘いに驚いて返事がやや遅れる。


「え、あ……いいの……?」

「まぁ、その頃にはここも落ち着くだろうしな。雪以外にも北の都でしか見られないものもあるし……別に嫌なら行かねぇよ」

「ううん! 嫌じゃないわ! すごく素敵よ。私、ずっと家にいてばかりだったから色んなものを見たいの。この雪みたいに綺麗なものが他にもあるなら、見てみたい。一緒に行きましょ、どこへでも!」

「そ、そうか。じゃあ、早いとこ用事を終わらせろよな。手紙でも寄越せば迎えに行くから」

 

 そう言うジルの表情はどこか嬉しそうだった。もちろん私も同じく頬が緩くなっている。未知の体験や発見が出来ると思うと心が踊るようだった。

 ジルは組んでいた腕を降ろして、私と向かい合わせに座った。


「それ俺にもくれよ。氷菓子の残りはあと二人分しかないんだ」


 あと二人分というのは、マーガレットとノエルの分だろう。ちゃんと全員分を作るあたり、ジルの優しさを感じる。


「味見はしてなかったの?」

「してる。当たり前だろ。でも俺は今、食べたいんだ」


 今、という部分を強調しながら、ジルはこちらに口を開けてみせた。


「ほら、早く」


 口を開けたジル。氷菓子を持つ私。状況から察するに……。


 もしかして食べさせろってこと!?


 もはやそれ以外に答えはない。匙を受け取って自分で食べればいいのにと思っても、こう待ち構えられていては言えない。

 私は静かに氷菓子を匙に取ると、やや溶け始めたそれをそっとジルの口に近づけた。緊張で早鐘を鳴らす心臓の揺れで落としてしまいそうだ。

 彼の薄紅色をした綺麗な形の唇が匙をぱくりと包み、それに合わせてゆっくりと引き抜く。


「……味見した時よりこっちのが旨い。何でだ……?」


 ゆっくり味わった後、ジルは言った。どこか確かめるような独白のような感想だった。


「きっと一緒に食べたからよ、食事は皆でした方が美味しいわ」


 私がそう言うとジルはじっとこちらを見た。


「……わかんねぇな。もう一度―――」


 ジルがテーブル越しに更に乗り掛かるようにこちらに身を乗り出した。急に近づいた彼の顔に鼓動が早まる。こんなに近くで見たのは初めてかもしれない。彼の夕陽のような色をした瞳は強い意思と美しさがあった。この艶のある血色のいい唇に氷菓子を食べさせたと思うと、恥ずかしさが込み上げてくる。


「……いや、何でもない」


 ジルが言葉を続けるまで時間が止まったかと思うほど、私は緊張しきっていた。彼はいつの間にか身をひいて肘をついて不機嫌そうに視線をそらしている。


 いつも通りに戻ってる……。


 私はよくわからなくなって氷菓子を食べ、何故だか少しほっとしているのを感じていた。それは甘さのせいか、ジルとの距離が空いたからか。


「……ジル、ありがとう」

「は?」

「この氷菓子、とても美味しい。すごく努力して作ったってわかる。ずっと住んでいた村を出てまでお菓子作りをして……私にはそうまでしてしたいことがないから羨ましいなって思ってたの」


 私は笑ってジルを見た。羨ましくて、夕陽を見るみたいに眩しい。


「俺はあの村で生まれ育ったわけじゃねぇよ。だから未練とかそういうのはない」


 私は驚いた。ジルの故郷だと思っていた村はそうではなかったというのだ。


「そうなの? てっきり、ジルはあの村の出身かと思ってたわ」

「俺は―――」


 言いかけて、止まる。何か事情があるのだろうと察しがついたので、私も何も言わない。もう氷菓子も食べ終わったのでここを離れる口実も出来た。


 これ以上ここにいたらジルも気まずいわよね……お礼を言って部屋に戻ろう。あ、その前に歯磨きを―――


「俺は、元々ムスペル国から来たんだ。責務から逃げて、やりたいことやるためにこの国に逃げ込んだ。だから、あんたが思うような高尚な意識があったわけじゃない。情けない男なんだよ、俺は」


 私はまたも驚いてしまった。ジルがムスペル国の出身であることもそうだが、何より彼がどうすることも出来ない悔しさと悲しさを噛み潰しているように見えたから。

 立ち上がって背を向けてしまったジルに何と声をかければいいのか。黙っているのが正解なのかもしれない。

 でも―――


「……ジル、私はジルの作るお菓子が好きよ」

「……は?」

「お菓子だけじゃなくて、あの日食べさせてくれたトムトも。努力してない人にあんな愛情のこもった作物は作れない。お菓子も勉強して考えて試行錯誤したから、誰も作ったことがないこんなに美味しい氷菓子を作り出せたんだと思う。私は、こんなに努力して……一生懸命頑張ってる人を情けないなんて思わない!」


 気が付けば思ったことを口にしてしまっていた。図々しい。握り締めた拳が痛い。


「だから、自分を情けないなんて言わないで。好きなこと、したいことに真っ直ぐ向き合う素敵な人生だわ」


 何を言ってるのかしら……私。人の人生を評価出来るほど、できた人間でもないのに。

励ましたい気持ちが前のめりになりすぎた……。


 若干後悔しつつ、ジルの様子を見てみる。彼もこちらの様子を伺っていることに気が付いて、羞恥心も沸き上がってきた。


「あんたさ……」

「は、はい」

「ほんと、人が良すぎなんだよ。そんなんじゃ、いつか狼に食われちまうぞ」


 刺々しい言葉なのに優しいそよ風のように話す彼は、柔和な笑みを浮かべていた。


「お、狼……?」

「はぁ……俺はもう寝る。あぁそれから、冷凍庫からあいつの分を出して食わせておけよ。魔石が勿体ねぇからな、頼んだぞ助手」


 そう言ってジルは廊下へ向かう。


「う、うん……わかったわ」


 歩き始めに目が合った時、彼は顔をしかめていた気がした。怒っているわけではなさそうだが、いらないことばかり言ってしまったので気分を害していたのかもしれない。


 頬も血色よすぎるくらいだったし、もっと冷たい氷菓子を分けてあげるべきだったかも。


 ジルが二階の寝室に向かって、程なくしてノエルが現れた。


「レティシア様。こんなところにおられたのですね」


 ノエルは借りている寝間着を着て、髪はまだしっとりと濡れていた。湯上がりでほかほかと心地よい熱気がこちらにも伝わってくる。


「ノエル、ゆっくり出来たみたいで良かったわ」

「はい。レティシア様のおかげです」


 そうと言えばそうだが、お礼なら家主に言って欲しいと思う。私はお湯を温め直しただけだ。


「レティシア様、何か召し上がったのですか?」

「あ、そうなのよ。ジルが新しいお菓子を作ってくれて、さっき食べ終えたところなの。ノエルの分もあるそうよ」


 ノエルはテーブルの上の空の器を見て気が付いたようだ。私はさっそく冷凍庫から氷菓子を出して、新しい匙を添えてテーブルに置いた。忘れずに庫内を冷やす魔石の力も非接続にした。


「さぁ召し上がれ。甘くてとっても美味しいわよ!」

「ありがとうございます。いただきます」


 私が作ったわけではないが、味は自信を持っておすすめできる。ノエルは席につくと匙を手に氷菓子を食べた。私も隣に座り、どきどきしながら感想を待つ。


「……なるほど、確かに新しい菓子のようですね。乳の臭みもなく、さっぱりとしているのに甘くて美味しいです。冷たくてとろける食感も面白いです」

「良かった! ね、美味しいわよね!」


 褒めて貰えたことが自分のことのように嬉しくて、思わずノエルにぐっと近づいた。

 顔を覗き込むと、当然ながらノエルと目が合う。


「あ……」


 ほんの一瞬のことだ。そのはずだ。それなのに長い時間彼の姿を見ていた気がする。

 透き通るようなしっとりとした頬は薄く朱に染まり、氷菓子を食べて僅かに開いた唇は濡れて艶を帯びていた。長い睫毛の下から覗く紫色が熱っぽく見えるのは、湯上がりのせいに違いない。

 その姿は呼吸を忘れてしまうほどの美しさで、彼を美しいと認識してしまうと鼓動がやけにうるさくなる。


 いつもこうだわ。意識すればするほど、もっと意識して、緊張して……心地いい鼓動が全身を走り回る。


「……レティシア様?」


 ノエルの呼び掛けに硬直した体が解放され、私は彼から離れるように座り直した。


「何でも、ないわ……」


 私は呼吸を整えて俯いた。


「そうは見えません。もしかして、私が何か至らぬことを―――」

「ち、違うわ! ただ、その……」


―――ノエルが綺麗だったから。


 そう言い淀んでいると、目の前に何かが現れる。


 氷菓子……?


 ノエルは匙で氷菓子をとり、私の目の前に差し出していた。


「……?」

「どうぞ、召し上がってください。私はレティシア様に笑顔になっていただきたいです」

「いえ、これはあなたの分だから食べられないわ!」

「レティシア様は昼間、私に焼き菓子をくださいましたよね。私はとても嬉しかったんですよ、ただの焼き菓子が……愛しく思うほど」


 そう言ってノエルは目を細めて笑った。


「美味しいものは一緒に食べましょう。……はい、お口を開けてください」


 小さく囁くような声が私を操り人形のように動かした。口を開け、与えられた氷菓子を受け入れる。

 冷たくて、甘くて、とろけてしまう。


「……やっぱり美味しい」

「では、もっと食べてください。もう一口―――」

「いえ、これ以上は無理! 今日は一つ食べてしまったけど……一応、痩身のために寝る前の甘味は控えてるのよ。ノエルが食べなくては私がまた豚と罵られるわよ。いいの?」

「それは……断じて許せません。残りは私がいただきます」


 良かった。少しずるい言い方だったけれど、こう言うのが一番効果的ね。


 ノエルは残りの氷菓子を一口食べると、一瞬動きを止めたように見えた。


「……? どうかした?」

「あっ……いえ何でもございません」


 そうは言うが明らかに挙動がぎこちなくなっているのがわかった。氷菓子を食べる所作に迷いがあるような、そんな動きだ。


 食べるのが嫌……とか?


 ふと目についたノエルの耳。湯上がりのせいか真っ赤に色付いている。


 こんなに真っ赤だったかしら……? 具合が悪いのかしら。もしかして私の風邪が移った?


 私が疑問に思っていると、ノエルが食べ終えた食器を持って立ち上がる。


「あとは私が片付けます。レティシア様は就寝のご準備をなさってください、今日はマーガレットさんと同じ寝室で眠る予定ですよね?」

「え、えぇ。でもノエルの具合が悪そうだし私も片付けを……」

「大丈夫ですよ。明日は出発で忙しくなりますし、早めにお休みください」


 そう、明日は出発のための準備として買い物をする予定だ。そして準備が整い次第そのまま王都へ向かうことになる。いよいよ王都に向けて最後の旅路となる……はずだ。何か問題があっても明後日にはこの街を出ようと、ノエルと日中に話し合ったことは忘れていない。

 マーガレットとジルにも出発のことは伝えてある。


「……わかったわ。ノエルも早めに休んでね。おやすみなさい」

「おやすみなさいませ」


 それから私は歯磨きを済ませてマーガレットの寝室に向かった。彼女にはたくさんお世話になってしまって返せるものも少ないが、精一杯の感謝を伝えてここを出発しなくてはならない。

 そう、私は出発しなくてはならないのだ。何度も何度もその身に刻んだ言葉、その脅迫めいた言葉に押されて私は階段を登った。

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