57食目 熱を帯びた距離
体にこもる不快な熱と喉の渇きで私は目が覚めた。首を僅かに動かして見渡すと、ベッドの側にもたれるようにノエルが静かに寝息を立て眠っていた。テーブルにほのかな光を灯す室内灯が置かれていても室内は薄暗かった。
まだ夜中みたいね。あれからどのくらい寝ていたのかしら……。
気怠く重い体を起こしてガラス越しに窓の外を見ると辺りは真っ暗で、酷い雨が降っていた。ザアザアと風呂桶をひっくり返したような大雨が窓を叩いてうるさい。
ものすごい雨、こんなの見たことないわ。
私は喉の渇きで軽く咳き込んだ。テーブルの近くまで身を寄せて、卓上の白い瓶に入った水を木製のコップに慎重に注いだ。
コップの水を喉へ流し込むと生温い感覚と引き換えに潤いで満たされた。一息ついて、また布団に潜り込む。
こんな時に風邪なんて……早く王都へ行かなくちゃいけないのに。王都についたらどうしよう、素直に城へ行って通してくれるかしら。
父上への謁見はどうしたら叶うのか。未だその最適解はわからないままだった。とにかく城へ行くことしか頭になかった自分が腹立たしい。
正面から謁見が出来ないとして、夜中に浸入……使用人になりすまして紛れ込む……?
どれも無鉄砲すぎる。私は溜め息をついて静かに目を閉じた。今は一刻も早く体を治すことが優先すべきことだ。
私は布団から足を出し体温を調節する。ひやりとした空気が心地いい。
徐々に眠気が戻って来たころ、足元の方で気配がした。ノエルが起きたのかもしれない。
起きてたら怒られそう……寝たふりしてよう。
私は目を閉じたまま聞き耳を立てる。床の軋む音がして、ベッド脇の椅子に座ったようだ。特に何かしている気配はないが、僅かに溜め息が聞こえた。
嫌な夢でも見たのかしら……。
疲労からかまたすぐに睡魔が襲ってきた。もう眠りに落ちそうだという時だった、彼がとても小さな声を出したのは。
「……何故、あんなことを……」
か細い独り言。雨音でかき消されそうな弱々しくて悲しみを含んだ声だった。
あんなこと……?
一瞬、自分が何かしたのかと思い出してみるが思い当たることは特別ない。そもそも彼がこんな風に責めるような言葉を発する時は、大抵自分自身……彼のことが多かった。彼は何かを後悔、あるいは罪悪感に苛まれているのかもしれない。
きっと、よほど嫌な夢を見たんだわ。寝たふりをしている手前、急に起きるのも怪しいし……。
「―――セレスティア様……お許しください……」
胸に硝子片が突き刺さるような痛みが走る。
セレスティア―――セレスティア・レーヴ・ヴァンディエール。
ノエルが口にしたその名は久しく聞いていなかったが、私は忘れてなんかいない。忘れるはずがない。
母上の、名前……。
けれどその名を思い出せば、懐かしさよりも悲しさや寂しさが込み上げる。私が幼い頃に亡くなった母。死因は私もノエルも知らない。父上に会えたらそのことも聞きたいと思っていた。実の母の命日も、亡くなった理由も知らないのは薄情な気がしたから。
ノエルはどうして母上の名前を言ったのかしら。
その時だった。瞼を閉じていてもわかるほど強い閃光が射したかと思うと空気が爆発したかのような轟音が響き渡り、ビリビリと窓や家屋が震え揺れた。
「―――ひぎゃー!!」
痛む喉から捻り出された悲鳴は乙女のそれとは思えなかった。飛び起きると驚いた顔のノエルと目が合う。
「あっ……おはよ……」
気まずい。起きてたのバレてないかしら。
「……おはようございます」
そこは、まだ夜ですよ、とか言って欲しいのに!
私はやきもきしながら視線を落としていると、ノエルが水の入ったコップを差し出してくる。
「どうぞ、お飲みください。お体の具合はいかがですか?」
「えぇ、大丈夫……と思う」
コップを受け取り軽く水を口に含んだ。叫んだ時に喉を痛めたのか、じんじんと痛かった。テーブルにコップを置くとその手をノエルに掴まれる。
「本当に大丈夫ですか?」
私を真っ直ぐ見つめてくる瞳に鼓動が早まる。
「た、多分……」
「……では……確認致します」
そう言ってノエルの手が私の額をそっと撫でた。ひやりと冷たい手に思わず目を閉じて、体もビクリと反応する。心臓がどくどくと煩くて、熱も上がってきた気がする。
「す、少し熱い……?」
私が尋ねてもノエルはじっと手を添えたままだった。目を開けて見れば、ノエルが私に射ぬくような視線を向けていた。室内灯の僅かな光に照らされ、顔に影を落とすその姿はとても妖艶に見えた。
「……わかりませんね」
ノエルは手を離すと今度は両手で頬を包み込んできた。手を伸ばすほどの距離から、ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
「えっ、あっ……ノエル……?」
混乱しているとノエルは吐息混じりに小さく囁いた。
「もっと近くで感じさせてください。貴方の熱を……」
視線は私から一瞬も離さない。私は捕らえられた獲物のように硬直していた。互いに見つめ合い、何も言葉は出てこない。
もう目と鼻の先に顔が近づき、ノエルの静かで熱を帯びた吐息が唇にかかる。私は目をぎゅっと力強く閉じた。このまま目を開けていたら何か得体の知れないものに気持ちを飲み込まれてしまいそうで。
すると、額にコツンと何かが当たるとそのまま身を引く気配がした。
な、何が起こったの?
わけがわからず目を開けると、ノエルが体を冷ますための布を水に浸して絞り始めた。
「やはり、まだ熱がありますね。これで汗を拭いましょう。そうすれば、少し楽になりますよ」
「あの、ノエル……今、何を?」
「私の額を当てて体温を確認させていただきました」
「そ、そうなの……」
そ、それだけ……? いやそれ以外に何があるのよ。
今も心臓が激しく鼓動してるのに、何だか私だけ損したような気がした。何故こんなに緊張してしまったのかわからない、でもそれを彼に聞くのも悔しいので黙り込むしかなかった。
「レティシア様、こちらを向いてください」
「……はい」
ノエルに体の正面を向けると、水で濡らした布で体の露出している部分を拭いてくれた。額や頬、首回りと腕も拭き終わると体が少しすっきりとして楽になった。ノエルに手を添えられながら再びベッドに横になる。
「ありがとう。ノエルのベッド、取ってしまってごめんなさい」
「私のことは気になさらず、どうかゆっくりお休みになってください」
そう言う彼の笑顔を見るとホッとして眠気がじわじわとやってきた。私はちらりと窓の方を見た。まだ雨は激しく降っていて、また雷鳴が轟くのではないかと怖かった。
すると、隣に座るノエルが優しく手を握ってくれた。大きくて暖かい手はいつもと変わらず優しくて、少しだけ泣きそうになる。
「私が側にいます。だから、安心してお休みください」
「えぇ……でも、少しだけお話ししたいわ」
「勿論です。どんなお話しをしましょう、お伽噺は……子供すぎますね」
「ふふふ、そうね。でも、ノエルの声なら退屈しないと思うわ」
ノエルの声は落ち着いていて、大人びているのに透き通るような聞きやすい声だもの。お伽噺なんて聞いたらすぐ寝てしまいそう。
「ねぇ……ノエルは、寝ている時に夢を見る?」
何となくそう尋ねてみる。先程のことはこちらから聞けなくても、彼から話してくれたら嬉しいと思った。
「夢、ですか……あまり見る方ではありません。見てもすぐに忘れてしまいます」
彼の返答に少し残念な気持ちになる。
「そうなのね……」
「レティシア様は夢を見られるのですか?」
「えっと、私は……よく夢を見てると思うわ。印象的な夢は目覚めてもよく覚えてる」
私は体に障らないよう静かに話した。今は少しでもノエルと話していたい、そんな気分だった。
「前にも話したことあるかしら、少し前の夢なんだけど……路地裏で、誰かに焼き菓子をあげる夢を見たわ―――私はとても幼くて、父上と母上のために買った焼き菓子を他の子供にあげちゃうの」
「ふむ……何故あげたのですか?」
「その子はとても冷たい目をしていたけど、一人ぼっちで寂しそうに見えて……元気になってくれたらいいなと思ったのよ、お人好しよね」
「いえ、とてもお優しい行動だと思います」
ノエルがそう優しく言葉を返してくれる。施しは時に残酷な結果に繋がるという話しを聞いたことがあったので、夢の中の私はお人好しで無知で残酷な幼子だ。
「何故かその夢は、よく覚えてるの。何か意味があるのかしら……」
「そうですね。もしかすると、本当にあった昔の記憶……かもしれませんね。レティシア様にとってその夢は何か特別な思い出なのでしょう」
特別な思い出、と言っても夢で見たこと以外は何もわからないし……普通のことにしか思えないわ。
「……私には、塔で過ごしたことだけが思い出だわ。貴方と一緒に、甘いものを食べたり……お茶をしたり……」
話し疲れたのか段々と意識が遠退き眠気が襲ってくる。静かに呼吸を繰り返していると、ノエルは布団をかけ直してくれた。
「私も、またあのような幸せな時間を過ごしたいと思っています。……もう今はお休みください、私はここにいますから」
彼の優しい声に更に眠気が強まり、目を閉じた。隣に感じるノエルの存在で、心地よい幸福感に満たされる。
「……ん……おやすみなさい……」
私は深い眠りへと落ちる。
その間際、温かくて柔らかな感触を額に感じた気がした。
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