56食目 病と月と

 マーガレットとジルが私達を親切にも休ませてくれたことで、昼間の悲しい体験も幾分か和らいだ。

 お風呂を拝借し、少し早めの夕食をいただいてすっかり身も心も満たされていた。皆で作った食事は美味しくて、心に沁みるような優しい味がしたものだから、また泣きそうになってしまったというのは内緒のことだ。

 彼女達の店は夜になると小料理屋として営業をしているので、微力ながら接客も手伝った。温かい湯と食事をいただいておきながら、はいさよならと去ることは出来ない。

 賑わう店内で配膳をしていると、お客さんからふいに声をかけられる。


「あんた見かけない顔だよな、新入り?」


 見ると、中年男性が数人で酒を飲みながら食事をしていた。顔は赤く、もうすっかり酔いが回っているようだ。


「えっと……はい、本日はマーガレットさんのお手伝いをさせていただいてます」 


 今日だけでも、新入りってことでいいわよね。


「へぇ、そうかい。それにしても、随分と丸っこいな。普段何食べてんだ? いいもん食べてんだろなぁ、こんなに丸いし」


 呂律の回らない口調で男性が言った。


「これだけ太い女は中々お目にかかれないぞ。皆、拝んでおけ!」


 そう言うと男達はふざけた様子で私に祈る姿勢をしてみせた。


 あぁ、こういうやり方をするのね。


 私は溜め息をつき、目を伏せた。これまでに幾度となく向けられてきたこの悪意のある行為と言葉に辟易していた。傷付かないわけではないが、出来るだけ傷付かないように心に蓋をする。

 周りの他の客達は少しこちらに目線を向けるものの、すぐにそらす。関わりたくないと言いたげだ。


「……ご注文がなければ失礼しますね」


 私は一呼吸してから背を向ける。すると、逃がすまいと腕を捕まれた。


「待て待て、まだ言いたいことがあるんだよ」


 そう言いつつ、男の一人が私のお腹を無遠慮に掴もうとするのがわかった。気が付いた時には遅く、今にも触れそうだ。


「……っ!」


 もう避けれない、そう思って来る不快感に身構えた。


「何してんだ」


 そこへ低い声で誰かが割って入った。見れば、ジルが伸びてきた男の手を捻り上げていた。そして私の腕を掴む男の手を強引に引き剥がす。


「ジル……!」


 私は驚くと同時にひどく安堵していた。


「な、なんだぁ! 客に暴力しようってのか!?」

「客だろうがこの店で騒ぐつもりなら許さねぇ、出ていけ。不快だ」


 他の男達にも表情に怒りの表情が浮かんでいる。ジルが更に睨みを利かせると今度は別の男が誰かに腕を持ち上げられ立たされる。


「お客様、お会計は外でいただきます。こちらへどうぞ」


 こちらも口調の割に鋭い視線だ。ひやりと冷たい雰囲気を纏わせながら怒りをあらわにしていた。


「ノエル……!」


 客の男達はジルとノエルの圧力に耐えられず小さな悲鳴を上げる。そしてそのまま逃げられないようにされ外へと引きずり出されていった。


 行ってしまった……。


 外が気になるものの、どうしていいかわからず目の前の誰もいなくなった席の食器を片付け始めた。

 すると、外から大きな物音と呻き声が複数回聞こえ、程なくして涼しい顔をしたノエルとジルが扉を開けて戻ってきた。


「あ……ノエル、ジル。ありがとう……助けてくれて」


 そう言うとノエルはにっこりと微笑んだ。ジルは変わらず不機嫌そうだ。


「お怪我はありませんか? レティシア様に対する行いは、身をもって知ることになりましたのでご安心ください」


 それは安心していいのかしら……。


 少しだけ男達を不憫に思う。ほんの僅かにだが。


「金はもらったし、もう来ることもねぇだろ」


 ジルはそう言って財布と思われる袋をチャリチャリと鳴らして厨房の方へ戻っていった。それと入れ違いでマーガレットが急ぎ足でこちらへ来た。


「レティシアちゃん! 大丈夫!? ごめんねすぐ気が付かなくて……変な人に絡まれてるって向こうのお客さんが教えてくれたの」


 マーガレットの目線の先には、厨房に近い席に座る年配の女性がいた。心配そうにこちらを見ているので、感謝を込めて笑顔で会釈をした。女性も微笑んでくれたのでほっとする。


「マーガレットさん……すみません。お騒がせしてしまったみたいで……怪我はないので大丈夫です」


 むしろ、あの男達のほうが怪我をしているのではないだろうかと思ったが、思うに留めておく。


「ごめんなさいね、私が軽い気持ちで手伝いをしてもらったから……」

「いいえ、こちらこそ忙しいのに迷惑をかけてごめんなさい。元々は私が悪いんです。人から良く思われる容姿をしていませんから」


 微笑む私をマーガレットが今にも泣きそうな顔で見るので少し胸が痛い。


「レティシアちゃん、ノエルさん。こんな時になんだけど……このままうちに泊まっていってくれないかしら」

「えっ?」

「へ、部屋は空いてるの! 夫の部屋はジル君が使ってるけれど、子供の部屋も空いてるし私の寝室はもう一人寝られるから……!」


 夫と子供……今はいないようだけど、本当に使ってもいいのかしら。宿を探す手間は省けるけれど……。


「それは助かります。でも、これ以上ご迷惑をおかけするのは……」


 遠回しに断ると、マーガレットは私の肩を両手で優しく触れた。


「いいえ、迷惑をかけたのは私の方。それに、ジル君のお友達なら尚更宿屋に泊まるよりうちで安全に過ごして欲しいの。近頃、兵の動きも活発だしすごく物騒じゃない」

「そう、ですね……」


 私が原因とは言い出せず、言葉に詰まる。マーガレットはそれを肯定と取ったようだ。


「じゃあ決まりね! ノエルさんもいいわよね?」

「はい、レティシア様がよろしければ問題ありません」


 ノエルはそう言うと周囲の片付けを始めた。私も今更断る勇気はなく、そのまま好意に甘えることにした。


 一晩だけなら問題ない、わよね。


「マーガレットさん、ありがとうございます。よろしくお願いします」


 頭を下げるとマーガレットは優しく頭を撫でてくれた。思いもよらなかったので心臓が跳ねたが、撫でられた髪から優しい体温が伝わってくるととても安心感を覚えた。


 何故かしら。母上の記憶はないのに、こんな感じだったような気がする……。


「レティシアちゃんはいい子ね。もう今日は店仕舞いにするから私の寝室で先に待っててちょうだい。廊下の階段を上がって奥の部屋なの、お花が飾ってある扉なんだけどわかりそう?」


 マーガレットは厨房の奥の廊下を指差した。確かに廊下に階段があったのを見た覚えがある。


「はい、多分……」

「レティシア様、私もご一緒します」


 ノエルは心配そうにしてくれているが、民家で迷子になるわけがないので安心して欲しい。


「うぅん、ノエルはマーガレットさんのお手伝いをしていて。まだお客さんもいるし、片付けだってたくさんあるわ」


 だから、先に休ませてもらうのは申し訳ないのだけど……。


「……かしこまりました。足元には十分お気をつけください」

「ありがとう、よろしくね」


 民家の作りは良くわからないし一人で歩くのは不安だったが、大丈夫だろう。私は借りていた前掛けをマーガレットに渡し廊下にあるらしい階段へ向かった。


 頭がぼんやりしてる……今になって緊張の糸でも切れたのかしら。


 厨房にいるジルを横目に通り過ぎ階段の前に来ると、やけに長い階段が続いているような気がした。薄明かりの廊下の照明に照らされた足元は頼りない。

 一歩、一歩と階段を上るにつれて、頭がぼんやりしていたものが目眩へと変わっていった。


 あ……これはまずいわね。


 ふらついた瞬間、手すりを掴んだ。


―――しまった……!


 掴んだはずの手すりは、ずるりと手を抜けてしまう。目眩がした時には既に握る力を込める余裕はなかったらしい。


 このまま、後ろに倒れたら痛そう。なんて思えるほど時間の流れがゆっくりになる。もしかすると階段の角に当たって打ち所が悪くて死ぬかもしれない。そう覚悟して来る痛みに身構えた。


「―――何やってんだ!」


 怒号が聞こえると共に、私は人の温もりの中に倒れ込んでいた。衝撃もほとんどなく、何が起きたのか理解するのに時間がかかったが、後ろに倒れ込んだ私をジルが支えながら抱き止めてくれたらしい。


「あっ……ジル……」


 ぐわんぐわんと揺れる視界にはとても怒った顔をしたジルがいた。どうしてそんなに怒ってるのだろうとぼんやり思う。


「とぼけた面しやがって! 具合が悪いなら階段なんか一人で上るんじゃねぇよ!」


 ジルは私のことをよく見てくれていたらしい。さっきすれ違う時に怪訝な顔をしていたのは私の体調を見抜いてたのかもしれない。


「ご、ごめんなさい……具合は悪くないの。目眩が、しただけ……」


 息が苦しく会話をするのもしんどい、これは思ったより悪いらしい。


「それを具合が悪いって言うんだよ! ちっ……」


 舌打ちをしながらジルは私を無理に抱き起こしたりせず体を楽にしてくれた。階段下で座り込むようにジルの腕の中、体を預けているとバタバタと二人分の走る音が聞こえてきた。


「レティシア様!」

「レティシアちゃん!」


 ノエルとマーガレットが慌てて駆けつけてくる。


「レティシア様、一体何が……っ」


 ノエルは真っ青な顔で私を見て、ジルと場所を交代した。いつもなら、ジルに敵対心とか殺意めいたものを向けそうなのに今回は大人しいなと思った。


「少し、目眩がして……階段から落ちたのを、ジルが……受け止めてくれたの」


 息も絶え絶えにそう話すと、マーガレットが慌てて厨房に向かった。


「と、とにかくレティシアちゃんはすぐに休まなくちゃ! 私はお水とか着替えを用意するから、レティシアちゃんのことはノエルさん、お願い出来る!?」

「はい、おまかせください。お部屋をお借りします」


 そう言うとノエルが私を横抱きで軽々と持ち上げた。私を持ち上げるのは並大抵の力では無理なはずだが、相変わらずの怪力だ。


「俺が案内する。こっちだ」


 私達はジルに案内されて、階段を上り一つの部屋に通された。明かりをつけると、そこには大人一人が眠れるベッドと簡素なテーブル、箪笥が揃っていた。よく見ると小さな子豚のぬいぐるみがテーブルに置かれていた


 ここは子供部屋……?


「レティシア様、降ろしますよ」


 ノエルが綿毛が落ちるようにゆっくりと体をベッドへ降ろしてくれる。彼の繊細な動作のおかげで体への負担がほとんどなかった。

 

「ありがとう、ノエル……」


 ベッドに体を横たえると一気に疲労感が襲ってくる。体が重くて怠い。それでも、横になっていると目眩は随分と楽になった。大きく息を吸い、呼吸を整える。


「ジルもありがとう……ジルがいなかったら、死んでたかもしれない」


 ノエルに布団を被せられながらそう言うと、ジルはそっぽを向いた。


「ここで死なれたら、迷惑だからな」


 良かった、怒っていないみたい。


 彼のぶっきらぼうで棘のある言葉には隠しきれない優しさがあった。彼とのやり取りは、頭を撫でたり暖かい言葉だけが優しさじゃないと気付かされる。


「女将さんがすぐ来るから、あんた達はここで待ってろ。あんたの世話は今晩、そいつに任せる。何か欲しいものがあったら言え、すぐに持ってきてやる」

「ありがとう、何から何まで……この借りは必ず返すわ」

「……そうかよ、無駄なこと考えず休んでろ。じゃあな」


 あまりこちらを見ずにジルは部屋を出ていった。

 ノエルはベッドの側に膝を立ててしゃがみ、私の手を握った。しばし、部屋は静寂に包まれる。


「……私が異変に気が付いていれば、こんなことには……申し訳ありません」

「ノエルのせいじゃないわ。自分でも体調が悪いなんて気付かなかったもの。変よね、急に……」

「気を張っていらしたのかもしれませんね。当然、旅の精神負荷もあるでしょうが先ほどの一件が追い討ちをかけたのかもしれません」


 気を張っていたにしてもどこか変な感じだ。体の調和が乱れたような、ただの冷えからくる病のような気もする。


「どうかしらね……」

「……やはりあの輩達は生かしておくべきではなかったようですね」

「やめて、生かしておいてあげて」


 目の覚めるようなことを言うものだから気が休まらない。そこへ、扉を叩く音がした。


「はい」


 ノエルが返事をするとマーガレットがたくさんの荷物を抱えて入ってくる。


「レティシアちゃんお待たせ。二人の荷物と着替えとお水、焼き菓子、汗を拭く布と氷ね。ノエルさんの着替えと毛布もあるわ。あっ、もしかしてお熱があるんじゃない?」


 荷物をテーブルなどに置くとマーガレットは私のおでこと首に優しく触れると、私はその心地よさに目を瞑った。


 くすぐったい、でもすごくホッとする……。


「うん、やっぱりお熱があるわね。お水を飲んでしっかり眠ることね。あとは……」


 マーガレットは持ってきた着替えの一部を私の枕元に置き直した。


 何かしら、これだけ服とは違う……?


 不思議に思っているとマーガレットが言いにくそうに切り出した。


「これ、大丈夫? 専用の下着だからもし良かったら使ってね。一人で着替えられるかしら」


 専用の下着。それを聞いて私はハッとした。


「……ノエル、悪いけど着替えをするから廊下で待ってて。あとで呼ぶわ」

「かしこまりました」

「マーガレットさんもありがとうございます。着替えなら一人で出来そうです」

「そう……無理しないでね。何かあったら遠慮せず言ってね」

「ありがとうございます」


 ノエルが出ていって、マーガレットも続き、部屋に一人になる。


 すっかり忘れてたけれど、そうだわ……!


 私は慌てて用意された衣服に着替えた。大きめの服は男性用のようだが構わない。重要なのは下着だ。旅をしていて忘れていたがこれがないと大惨事になるところだった。


「もしかして月のものが……来る前で良かった」


 年上女性の気配りと勘は鋭く、その後は予想通り、病と同時に苦しむ夜となった。

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