54食目 晴れ渡れば雨に打たれる

 ゆったりとした荷馬車の旅路が突如として困難なものに変わったのは、昼休憩を終え出発してからしばらくのことだった。

 付近の山間から曇天が広がったと思うとそれはあっという間に雷雲を呼び、滝のような雨粒が荷馬車を激しく叩いた。

 激しい天候不良なのに、こんなこともある、と馭者は言ってそのまま先を進んでいくのだ。私はこのあまりの悪天候に不安と怯えを感じていた。


「すごい雨ね……いつ止むかしら」


 荷馬車は撥水性のある布が使われているようで中は全く濡れていないのが幸いだった。


「この雨だと道の泥濘も心配ですね、馭者に確認して参ります」

「ダメよ、ノエルが濡れちゃうわ。それなら私が―――」


 立とうとしたノエルの腕を掴んでその場に留まらせると、前方の馭者が私達乗客に向かって大きな声を出す。


「皆さん、もうすぐ着きますよ!」


 その声に乗客達は安堵の溜め息を漏らした。それは私も同じで、ようやく宿に泊まれると思うと気持ちが前のめりになる。


「レティシア様、私達も準備しましょう」


 そう言ってノエルはローブを手渡してくれた。


「ありがとう。今度の街も過ごしやすいといいわね、楽しみだわ」


 私がローブを着るとノエルは荷物から何かを取り出した。


「レティシア様、こちらを」


 そう言って抱き締めるような格好で腕を首の後ろへ回してくる。


「わっ……な、何?」


 急に近づかれると緊張しちゃう……!


 ノエルの体温を感じると、何故か平静を保てない。心臓がばくばくと激しく鼓動し、どうしようもなく逃げ出したいような恥ずかしい気持ちになる。いつもそうだ、ノエルを意識すると頭が混乱して冷静さを欠いてしまう。

 そんな私など気にすることもなく、ノエルは首元で手を動かす。


「……ほら、出来ましたよ」


 ノエルが離れると私の胸元にはディオンからもらった魔除けの首飾りが金色に煌めいていた。


「首飾り? どうして……」

「レティシア様からこれを取り上げるのは不適切だと思いましたので。それに私は、あの男より余裕がありますから」


 そう言ってノエルは嘲笑うかのように笑った。それに本人も気が付いたのか少し咳払いをして表情を整えた。


「いつか私も貴方に贈り物をさせてください。誰よりも、心を込めて贈ります」

「じゃあ、その時は贈り合いましょ。私も誠心誠意、ノエルにぴったりなものを贈るわ! 首飾り以外でね」


 そうだ、私はノエルを縛り付けるつもりはない。だから、独占的な意味合いのある首飾りは贈らない。願いを込めるなら、貴方が自由になれますようにと願う。

 私達はお互いに見つめ合うと笑みを交わした。やっぱり、ノエルには優しい笑顔がよく似合う。

 しばらく荷馬車が進んでいると、馬の小さな嘶きと共に急停止した。皆が受け身を取る中、ノエルは私の肩を寄せて支えてくれていた。


「ど、どうしたのかしら」

「……これは……」


 ノエルが眉を歪ませ厳しい表情になる。すると、激しい雨音に混じって外から話し声が聞こえてきた。複数の人の声は馭者に何か話しかけているようだった。


「―――皆さん、検問です。手荷物を確認します」


 馭者の声が馬車内に響くと、荷馬車の後方の布幕が上へ捲れ上がった。


「―――っ!」

「レティシア様、私の影に……!」


 私は反射的にフードを目深く被り、うつ向くように隠れた。ノエルも同じように素早くフードを被ると私を自然な形で見えにくくし体勢を整えた。

 そして鉄の擦れる音が聞こえ、低い男性の声が馬車の乗客達に投げかけられる。


「手荷物の検査を行う。包み隠すことなく提示せよ!」


 その声に乗客達は次々に手荷物を見せているようだ。私は下を向いて目立たないよう床の木目を見る。


 気付かれたらどうしよう、手荷物検査なら人は見ないわよね……?


 固まる私の代わりにノエルが荷物を見せているようだ。ばくばくと心臓が鳴ってしばらく生きた心地がしなかったが、すぐに終わったようだ。


「―――よし、通れ!」


 その声と共に荷馬車はまた走り出した。相変わらず雨は酷いが無事に検問を終えられて一安心だ。


「……ノエル、ありがとう」

「いえ、当然のことです。それより、レティシア様に何事もなくて良かったです」


 本当に、何もなくて良かった。もし王女と気付かれたら今までの道程が水の泡になるところだったわ。


 二人で安堵していると荷馬車は雨避けのある広場のようなところに着き、そこで皆が下車の準備を始めた。どうやらここで荷馬車の旅は終わりのようだ。軽い挨拶を交わして乗客達は雨の街へ消えていく。馭者は馬や荷馬車の確認をしているようだ。

 私達が荷馬車から降りると、あの吟遊詩人の青年が声をかけてきた。


「いやぁ長旅お疲れだね。こんな雨だと宿探しも大変だ」

「えぇ、本当にそうですね。貴方はもう決まっているんですか?」


 私が訊ねると青年は雨を吹き飛ばすような明るい声で笑う。


「はははっ! いいや全然! と言いたいところだけど、しばらく知り合いのところにでも泊まるつもりだ。良かったら君達もどうだい?」

「いいんですか? ノエル、どう―――」

「遠慮します」


 青年の誘いに喜ぶ私とは逆にノエルは一刀両断だった。


「どうして? すぐ近くなんだ、二人ともおいでよ」


 青年はノエルの冷たい態度に臆することなくにこやかだ。


「折角のお知り合いとの時間を邪魔してしまいます。我々は安宿に向かいますのでどうぞお気になさらず」


 二人の様子がおかしいと気が付く時には、周囲に人影が複数現れていた。薄暗いこの場所に不穏な金属音と共に現れた男達は皆武装している。恐らく、荷馬車の検問に関わった集団と同じだろう。

 ノエルは私を近くに寄せて庇う体勢をとる。険しい表情に怒りが見える。そんな私達を見て、吟遊詩人の青年が高らかに笑う。


「はははは! まるで追い詰められた豚だね、面白くて涙が出る」


 豚、疑いようもなく私のことだわ。


 私は気のいい青年が豹変した様子にただただ言葉を失っていた。さっきまで笑い合っていたのに、その顔に張り付いたおぞましささえ感じる歓喜の表情に私は恐怖した。


「どうしてこんなことを!? さっきまで皆で仲良くしていたじゃないですか……!」

「君……聖王から指名手配されてる賞金首だろう? 良かったよ、旅をするには色々足りなかったんだ」

「指名手配じゃないわ! 尋ね人よ!」

「うるさいなぁ、どっちでも同じだろ? 動けないように痛め付けてから城に突き出してもいいんだけど?」


 苛立つ青年に食って掛かると青年も私を睨みながら叫ぶ。これは話し合いではどうにもならないということは私にもわかった。


 どうにかして逃げなきゃ……でも、どうやって……!


 石造りの建物の一階部分を開いたようなこの場所は出入口が二ヶ所あった。向かって正面には最初に入ってきた場所と、背後に街のどこかへ繋がりそうな開きっぱなしの大きな門だ。降り頻る雨で遠くまで見通せないがこちらなら逃げられそうだ。

 しかし、遠巻きに囲まれていて全力で走ってもすぐ捕まってしまうだろう。

 

「ノ、ノエル……!」


 どうすればいいかわからずノエルを見上げる。


「大丈夫です。私にお任せください」


 ノエルは周囲を細く鋭い目線で確認すると右手を地面に向けて素早く振り下ろした。すると私達を中心に強い風のようなものが取り囲む武装集団を一気に吹き飛ばした。肌がチリチリとする感覚にそれが熱風だとわかる。


「―――ぐおぉあぁぁ!」


 馬の悲鳴と何人もの男達の悲鳴が響くと同時に私をノエルが横抱きに抱え上げた。


「―――行きます。しっかり掴まってください」

「えっ!? あっ、ちょっ……!」


 ほぼ反射的にノエルの体にしがみつくとノエルが後方の門へと一気に駆け抜ける。呼吸が苦しそうな男達を横目に大粒の雨の中へと飛び出した。


「レティシア様、もうしばらくご辛抱ください」


 ノエルは息を乱すことなく水溜まりを蹴りつけて、街を疾走していく。彼の脚力が人並みではないのはよく知っていた。それでもやはり心配になる。


「ねぇ、自分で走るから下ろして!」

「それでは追手に追い付かれます」


 ごもっとも、悔しいけど何も言い返せない。


 私は大人しくノエルに抱えられ、身を任せた。冷たい雨が全身を濡らし体力も消耗していく中、ノエルは水溜まりを踏もうが曲がり角を曲がろうが、足を取られることなく走り続ける。

 しばらくして私達は小さな商店の軒下に避難した。


「この辺りまでくればもう追手は来ないでしょう。レティシア様、お怪我はされてませんか?」

「大丈夫よ。それより、無理させてごめんなさい……」


 私は濡れたノエルの顔を持ち合わせていた手布で拭いてあげた。手布も少し濡れていたがないよりは良い。


「あ、ありがとうございます……」

「……ふふっ」


 大人しく拭かれる様子が可愛くて思わず笑ってしまう。


「な、何か可笑しいでしょうか」

「いいえ、何でもないわ。さて、お互い怪我も無さそうだからどこか泊まるところを探さなくちゃね」


 とは言え、この大雨では宿探しも難しい。空を見上げても暗い雲が広がるばかりでとても晴れそうにない。


「うーん、どうしよう……」


 考えあぐねていると、商店横の路地から人影が現れ私とノエルは一瞬身構える。


 もう追手が来た!?


「―――何で、ここにあんたが……」


 そう声を掛けられてようやく私はその人物の顔を見た。夕陽のように強い黄赤色を帯びた髪はこんなに天気が悪いのに不思議なほど綺麗だった。


「……ジル、さん?」

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