53食目 川辺の休息

 荷馬車の旅は森を歩くよりも当然ながら快適だった。揺れる荷馬車と心を踊らせる演奏、気のいい乗客達。幸い、私のことを尋ね人だと気が付く者はいなかった。

 休憩で立ち寄った川辺で昼食を取ることになり、皆思い思いに荷馬車から降りて休み始める。


「私達も向こうで食事休憩しましょ」


 ノエルと下流に向けて歩く。優しく揺れる枝葉や穏やかな陽気、鳥のさえずりが心地いい。若草の香りがする草原と緑豊かな山々は心を穏やかにしてくれる。


「レティシア様、こちらにお掛けください」


 ノエルが柔らかそうな草の上に誘導するように手を差し出す。


「えぇ、ありがとう」


 ノエルの手を握り、予想よりふかふかした草の上に座ると青い匂いが僅かに立ち上った。


「ノエルも。座って」


 隣をぽんぽんと叩くとノエルは遠慮がちに腰を落とす。


「では……失礼します」


 荷馬車に乗っていた時よりも離れた位置に座ると荷物から携帯食料をいくつか取り出した。まだ柔さを保ったパン、腸詰めされた燻製肉、甘味の乾燥果実。


「あ、このお肉美味しいのよね! それに乾燥オレンもあるのね、嬉しいわ」


 昨日ノエルが買い出しでお店回りをしてくれたおかげで携帯食料といえど充実していた。


「レティシア様が喜んでくださるならどこへでも買い付けに参ります。さぁ、どうぞお召し上がりください」

「ありがとう、いただきます」


 丸みのあるパンに燻製した肉の腸詰めを乗せ、その上にムスペル国特産の香辛料を僅かにかけて大きくかぶりついた。パリッとした歯ごたえのある肉の脂身とやや強い塩気がパンで中和され、香辛料の香りが鼻を抜けていく。


「うん、美味しい! 景色がいいと食事も一層美味しいわね!」


 痛みやすいから生野菜が食べられないのは残念だけど、景色も空気も清々しいわ。


「そうですね。こうして二人で食事をしていると塔で過ごした時間が思い出されます」


 私はノエルの言葉に少し驚いた。たぶん、彼は感傷的になっている。普段は口数も少なく自分の感情を言葉にすることのない彼がこんなことを言うなんて珍しい。

 もしかしたら、城に近づいて来てることに対して彼なりに想うことがあるのかもしれない。


「まだあそこを出てから日も浅いのに、すごく昔のことみたいに思うわ。懐かしいくらい。ノエルは……戻りたい? あの時間に」


 私の問いにノエルは小さく笑った。


「愚問ですよ、私は今の時間が何より尊いのです。レティシア様がいる時間が、場所が、私の居場所です」

「私も。ノエルが一緒ならどこでもいいわ」


 だからここまで来られた。経験のない旅路もノエルがいるから大きな怪我や事故もなく安心して歩んで来られた。


「……私、父上のご病気も心配だけれど今は進むしかないって思ってるわ。その先は、まだわからないけれど……」


 進むことで不安を拭う。そうして気持ちを保ってきた。私がパンをまた一口頬張ると、ノエルが静かに口を開く。


「もし、城にいられなかったら……その時は私とどこか遠くへ行きましょう」


 ノエルが私を見つめて言った。その真っ直ぐで優しい瞳に驚き、私は口の中の食事をろくに咀嚼もせず飲み込んでしまう。


「ど、どこか遠く?」

「ええ。聖王様の故郷である遥か西の国は、気候も安定して住み良いところだと聞いております。そこでなら身分も気にせず暮らせるはずです」


 ノエルは心地よい夢を語っているかのように楽しそうに話す。


「父上の故郷……確か、母上のところへ婿入りするまで住んでいらしたのよね」

「そうです。作物も豊富に採れて、海にも面した豊かな国です。レティシア様は海をご覧になられたことがありませんでしたね、家は海から近いところもいいかもしれません」

「海? いつか行ってみたいとは思ってたけど……」


 いつもに増して饒舌なノエルに戸惑う。

 そんなノエルに反して私は鼓動が早くなってしまって食事が上手く喉を通らなくなっていた。残りのパンを口に詰め込み胃に落とす。


「わ、私、喉が渇いたわ。あそこの川で綺麗な水を汲んでくるわね」


 私は荷物から水筒を取り出して立ち上がった。


「それなら私が―――」

「いいから! ここで待っていて!」


 とにかくこの鼓動を静めたくて、ノエルから離れることにした。急ぎ足で正面に位置する川へと向かう。草や花が私に蹴られて散り散りだ。


 誤魔化せたかしら……。いや誤魔化したとかそういうのじゃなくて、私は喉が渇いてただけ。


 坂を下ると川縁に着いた。川はそれほど大きくないが中央へ向かうにつれて、足を取られると溺れてしまう程度の深さがありそうだ。

 私は浅瀬で綺麗そうな水を探して辺りを見回す。


「水……どこで汲めばいいのかしら。湧水があればいいのだけど」


 少し歩いていると透明な川底から水が沸き上がっている所を見つけることが出来た。私は膝をついて水筒を水の中へ沈めた。冷たい水を水筒に詰め終わったので一口飲んでみる。滑らかな水は喉を潤わせてくれ、その冷たさで体の熱が引いていくのが心地よかった。

 そうしていると冷静な思考が戻ってくる。


「……きっと次の街で最後、なのよね……」


 王都までは次の街を越えるとすぐ近くだと他の乗客が言っていた。王都に着けば、父上に会えば、きっと何かが変わるはず。

 私は靴と靴下を脱いで素足になり、スカートを上へ持ち上げ川へと思い切り飛び込んだ。


「つっ……!」


 つ、冷たい!


 水飛沫が少しだけ服を濡らしたが足の汗を落とせるなら問題はない。ここの浅瀬は膝の下までだが、やはり真ん中はもっと深いように見える。

 腰を掛けるのにちょうどいい岩まで歩いてそこに座ると、ノエルが走ってくるのが見えた。


「レティシア様!」


 何故か大慌ての様子に私は少しだけ笑ってしまう。取り乱す姿が嬉しいなんて酷いことなのかもしれないけど。


「あら、慌ててどうしたの?」


 ノエルは少し乱れた息を整えて言う。


「レティシア様が突然川に飛び込まれるものですから、心配いたしました」

「浅瀬だから大丈夫よ。ノエルも入る?」

「いえ、私は周囲の警戒にあたります。レティシア様はごゆっくりとお寛ぎください」


 気を遣わせているのにゆっくりなんて出来ないわ。でも、少しだけ足の熱を下げるくらいならいいかしら。


「では、お言葉に甘えて……ちょっとだけ」


 私はそのまま岩に座り足だけを流れる水に浸けていた。ノエルは私の近くに立ち辺りを注意しているようだ。


「そうだわ、はい。水筒にお水を入れたわ。良かったら飲んでね」


 そう言って私は水筒をノエルに渡す。


「ありがたく頂戴いたします」


 水筒を受け取ると彼も水を飲んだ。しなやかな首筋の喉仏が上下に動く様子が何故か艶かしく見えて私は視線を川へと移した。


 格好が良いと何しても様になるのよね……。


 水の底では小さな甲殻類の生き物がゆっくりと苔のようなものを摘まんでは口に運んでいる。

 それを見ていると、ふと水面の流水に歪んで映りこむ自分の姿に嫌気が差す。食事にも気を付けて運動量も増やしてるのにあまり痩せた気がしない。


 落ち込んじゃうわ、こんなの……。


「私って何でこんなに太ってるのかしら……」

「努力は必ず実を結びます。急がずゆっくり頑張りましょう」


 ふと漏れた言葉にノエルが優しく声をかけてくれる。優しい言葉に救われる反面、目に見えて成果が出ないことに焦りを感じている。


 私がこうして後ろ向きになると、ノエルはいつも励ましてくれる……でも―――


「実を結ばない努力だってあるわ」


 私は川の冷たい水を足で蹴り上げる。水は飛沫となって空中に舞い、きらきらと輝いた後また水面へと落ちていった。


「……レティシア様は私がお側で仕えるようになった時のことを覚えていらっしゃいますか?」

「えっ?」


 ノエルは私の隣に座ると、私がしたように水面を覗き込んだ。靴が濡れないよう上手く座っていてやはり器用だなと思った。


「確か……私がノエルと初めて会ったのは塔に入る数日前くらいだったかしら。城の庭でお話ししたような……小さかったし、よく覚えていないわね」


 あの頃は母を亡くして随分時間も経ち、傷心とはいかなかったけど年相応に寂しかったような記憶はある。


「レティシア様はまだ五つになられたばかりでしたね。私は初めての仕事、初めての王命でレティシア様と共に塔へ行くことになりました」

「初めての仕事なのにあんな遠くに飛ばされて嫌だったでしょ?」


 私は苦笑いをした。


「いいえ、私はレティシア様のお側で働けるなら地の果て海の果てでも構いませんでした。今も昔も」


 そう穏やかに語るノエルの言葉に嘘はないように見えた。


「でもどうして? ノエルなら腕も強いし騎士にもなれるわ。頭もいいし大臣とか宰相とか……」


 ノエルならもっと選択肢があったはずだわ。私なんかの執事にならなくても……。


「レティシア様のお側にいることは容易ではありません。すべてにおいて最も優秀な者だけが貴方にお仕えすることができるのですよ。その為に、私はあらゆる努力をしてきました」

「努力……」

「そうです。今は変化に乏しくても必ず結果は見えるようになります」


 そう言ってノエルが私の手をとった。その綺麗な手は触ってみると見た目より筋肉質だ。いつもこの手で、私を守ってくれる。強くて優しい手。


「すべてはレティシア様のために……その思いで私は今貴方の隣にいます。疲れたら私に寄りかかってください、そうしてまた歩いて行きましょう」


 いつからか私は泣きそうになっていた。滲む視界、つんとする鼻、喉の息苦しさ。格好悪いところを見せてしまったと思った時には一筋の涙が頬を伝っていた。


「迷惑かけると思うけど……一緒に歩いて欲しい」

「はい、どこまでも」

「時間、かかると思うけれど……」

「はい、いつまでも」

「それから―――」


 ノエルの手が私の頬を包み、私の涙をそっと拭うとそれ以上言葉は続かなかった。

 木漏れ日が煌めく穏やかな午後の川辺、私達は小さな小さな約束を交わした。

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