51食目 蜂と蜜
この街での最後の夜が訪れた。私とノエルは明日の出発に備えて休む時間だ。ノエルの計らいで明日は乗り合いの荷馬車で王都の近くまで進む予定になっているらしい。荷馬車での移動は危険も伴うし何より運動にならないのであまり乗り気になれなかった。
明日運動が出来ない分、今日のうちに体操くらいしっかりしておかなくちゃ。
「―――それで、あの子はディオンのところにいるのよ」
「そうでしたか」
私はディオンと出掛けた時のことをノエルに話しながら、ベッドで体の柔軟体操をする。
温かいお風呂に入った後の方が体に効くけど、痩せる体への第一歩だから頑張らなくちゃね。
今は入浴こそ出来ないが宿の裏庭に水汲み場が付いていたので体は綺麗に出来た。しかし、やはり温かいお風呂は恋しいと思う。
椅子にかけて私の話しを聞いてくれるノエルも特に何も言わないので体操は続行だ。足を伸ばし座って、爪先に向かって手を伸ばすが手はお腹の脂肪に阻まれて届かない。
「あの子、可愛いくてもふもふだから側にいてくれたら癒されるけど……好きな人と一緒にいるのに引き離すのは可哀想でしょう?」
「ええ、仰る通りです。レティシア様はお優しいですね」
ノエルは微笑みながら相槌をくれる。
私ばかり喋ってるけれど、ノエルは何か話したいことはないのかしら。
私は柔軟体操の動きを止めて、ノエルに向き合った。
「ノエルも……好きな人と引き離されたら悲しい?」
「勿論です」
そのあっさりとした返答に私はどこか物足りなさを感じた。適当に返されてるような気がしたからかもしれない。
「それって好きな人がいたからわかる気持ちよね、好きな人……いたの?」
何で過去形で聞いたのかしら……今もいるかもしれないのに。
そう思うと胸にズキンズキンと痛みが走った。
「私はレティシア様を敬愛しております」
「いえ、そうじゃなくて!」
「……恋人のことですか?」
何故そんなことを聞くのか疑問なんだろう、ノエルは端麗な眉をひそめた。
「そ、そうね。アルさんの恋物語みたいな話しがあるのかしらって思って!」
余計なことを聞いてしまったかもと慌てて言い訳をする。あまり考えず言葉に出してしまったので気を悪くさせたかもしれない。
「あ、いえ……やっぱり言わなくても―――」
「私はレティシア様のために存在しますのでそういったことには興味がありません」
きっぱりと言われて私は思わずベッドから転落しそうだった。安堵したような、がっかりしたような、よくわからない気持ちになってしまった。
「興味がないって……ノエルなら引く手数多だと思うけれど」
半ば呆れているとノエルは不意に立ち上がり私の側に歩み寄って来た。落ちそうになったことでベッドの端に座り直した私の前で、片膝をついたと思うと右手で私の髪を優しく払い除ける。
「何……? 塵がついてた?」
「違います」
ノエルの指先が首を撫でたと思うとそこから全身に巡るようにビリビリとした感覚に襲われる。くすぐったさとは違う感覚に驚き身を強張らせた。
「この首飾り……あの男から貰ったそうですね」
どうやら首飾りを確認する為に私の首元に触れたようだ。
「そ、そうね」
ディオンに触られた時よりびっくりしちゃった。くすぐったくて……何だか恥ずかしい。
「レティシア様には年頃の男女のやり取りについてあまり詳しくお話ししたことがありませんでしたね。未婚の男性が首飾りを未婚の女性に贈る意味は何だと思いますか?」
ノエルは首飾りの鎖を指で撫でると返答を求めて私を見る。澄んだ紫の瞳は私の姿を映す。
「えぇっと……うーん……」
鎖と共に撫でられる首筋が気になって何も思い付かない。心臓も爆発するんじゃないかと思うほど鼓動が大きくなる。
答えられないでいるとノエルが口を開いた。
「―――貴方を束縛したい、貴方は私のものだ」
静かにそう言うとそっと頬に手を添えてくる。私はその言葉がまるで自分に言われているような気がして目眩が起きそうなくらい鼓動が強く、早くなった。脈打つ音が耳をうるさく叩いてくる。
「あ……」
何か言わなくてはと、小さく声にならない声を発すると、いつのまにかノエルが器用に片手で首飾りを取ってしまっていた。
「レティシア様はあの男のものになりたいのですか?」
目の前でゆらゆらと首飾りが揺れる。
「い、いえ……そんなつもりはないわ。でも魔除けの効果もあるみたいだし、ディオンも親切で贈ってくれたんだと思うわ。あの人は私をそういう風に見てないと思うし……」
「そうでしょうか。私には、あの男がレティシア様を側に置きたがっているように見えます」
「そんなわけないわ。私は……だって、こんな醜い容姿だもの。誰にも女性として見られないわ」
そうよ。私なんか……誰にも求められたりしない。女性としても人としても。
私がそういうとノエルは首飾りをテーブルに置いた。
「レティシア様はご自分がどのような存在なのかまるでわかっていないのですね」
その言葉に心臓がドキリと嫌に跳ねた。聞き覚えのある声と言葉が脳内に甦る。
クラウスと同じことを―――
あの時のクラウスとは言っている意味が違うとは思う。しかし二人にどこか同じ雰囲気を感じてしまっていた。
「ノ、ノエル……それってどういう意味……?」
「レティシア様の美しさ、聡明さ、そして強く気高い心。私がどれ程ご説明してもご理解いただくのは難しいでしょう。これまでがそうであったように……」
ノエルが正面から近づいてきて、思わずベッドの奥へと下がってしまう。冷たい壁に背中が当たると、もう後ろはない。
「いくらなんでも褒めすぎよ。主従関係だからってこんなにご機嫌とりしなくても―――」
「主従は関係ありません。……やはり、ご理解いただくしかありませんね」
さっきは説明しても理解出来ないって言ってたのに。
ノエルがベッドに膝を乗せると、そのまま私の片方の手首を掴む。今まで彼は私のベッドに意図的に乗るなんて真似はしたことがない。だからこんな風に腕まで掴むなんて信じられずただただ混乱してしまう。
「ななっ何……!? ど、どういうこと……?」
「レティシア様が大変魅力的なのが悪いのです」
「だからって、どうしてこんな……近くに……」
不意に、首元に頬を擦り寄せるように顔を埋められる。ノエルの熱い吐息が体の芯まで届きそうだ。鼻先にあるサラサラの黒髪からは蜜のような匂いがして余計にクラクラしてしまう。
「男が女性を我が物にしたいと思うのは、好意を抱いているからに他なりません。こんな風に側に寄り、触れ合いたいと願うものです。恋人や妻にしたいか、或いは……もっと邪な想いを抱いているかもしれませんね」
耳元で囁く熱を帯びた吐息に、私はただ耐えるしかなかった。手首は壁際に押さえられ、私の力では抜け出せない。
「レティシア様は魅力的ですから、他の男達も傍観はしていません。あのディオンが最たる例です。アレスとべレスも……少年とは言え油断なりません。レティシア様はもっとご自身の魅力を理解してください。でなければ、傷つくことになります」
「き、傷つく……?」
「今から実際に体験されますか?」
ノエルが私から少し体を離した。正面に向き合うと少しも笑みを浮かべていないノエルの顔がそこにあった。真剣な、鋭いほどの眼差しだった。私は体を強張らせ、未知の恐怖にごくりと唾を飲み込んだ。
しかしノエルは掴んだ腕を離すとベッドから降り、衣服の乱れを整えるとあっからかんと言う。
「―――と、このように恐怖を与えられるかもしれないのです。男は狼、という言葉をよくよく覚えていてください」
私はあまりの空気の変わりようにぽかんとしてしまったが、緊張感のある重い雰囲気から解放されたとわかると大きく安堵の溜め息をする。
「そ、そう……、なるほど。獲物を狩るような雰囲気は確かに狼ね。それにしてもノエルは演技が上手いのね。私、ちょっとだけ怖かったもの」
今も心臓がばくばくとしているくらいだ。正直言うと、何をされるかわからない恐怖はほんの僅かでほとんどはノエルが近くにいたからだと思う。不思議と嫌な気持ちではないのが自分でも驚いた。
「それは……申し訳ありません。勉強とはいえやり過ぎた行為でした。……今日は私は廊下で眠るのでご安心ください。結界を張り誰も入れないようにします。それではおやすみなさいませ」
「えっ!? ちょっと待って―――」
ノエルは視線を落としながら部屋を出ていってしまった。早々としていたので引き留める隙すらなく、私は部屋にぽつりと残される。
「な、何だったのかしら……」
つまり、男性の好意には気を付けろという結論でいいのかしら。塔にいる頃は男女のやり取りなんて勉強したことなかったし……教えるのにいい機会だと思ったのかしら?
私は取り敢えず部屋の明かりを消し、ベッドに潜り込んだ。まだ布にノエルの温もりが残っているのがわかってまた心臓がうるさくなる。
心地よく、名残惜しい、そんな余韻の気持ちが私の頭を浮遊感で包み込んでいた。
「…………ノエルで良かった……」
もし他の誰かにあんなことをされたら、きっとすごく怖かったはずだ。彼だから許せるし触れられるのも嫌ではなかった。
だけどそれって……ノエルが特別みたい。
彼とは長い時間をあの狭い空間で過ごしてきたから、家族も同然だ。特別なのは当たり前だ。それとは少しだけ違う何かがわからなくてもやもやとする。
「わ、わかんない……わかんないっ……!」
じたじたと布団の中でもがくとベッドがすごい音を立てて軋むので壊しては堪らないと慌てて大人しくする。
今日、眠れるかしら……。クラウスのこともまだ話せてないし……言い出しにくくなっちゃった。
私は奇妙な興奮を感じながら眠気を待ったが、夜の帳は私を捕まえてなかなか離してくれなかった。
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