32食目 孤児院の夜

 私が孤児院の古びた木製扉を軽く叩くと、静けさの中に乾いた音が響き渡る。


「……もう寝てるのかしら?」


 周りには外灯もなく、暗い空間に佇む孤児院の姿は不気味さを漂わせる。木々が風に揺られてざわめくと、その不気味さが際立った。


「まだ遅い時間でもありませんし、誰もいないのでしょうか」

「うーん、困ったわね」


 どうするか悩んでいると、扉の向こう側から僅かに気配が現れた。何かを探るような音がして、金属音が鳴ると扉がゆっくりと開いた。


「どちら様でございますか?」


 扉の隙間から僅かに顔を覗かせたのは女性のようだ。暗くてよく顔は見えない。

 私は少し緊張しながら尋ねた。


「旅の者です。夜分遅くにごめんなさい。今日の宿をお借りしたくて……」


 そう言うと、女性は扉を先程より大きく開いてくれる。修道服のような服装の若い女性は静かに口を開いた。


「そうでしたか……。夜は冷えます、どうぞ中へ」

「あ、ありがとうございます」


 思っていたよりもすんなり中へ入れてくれた。私とノエルが中へ入ると、女性は静かに扉を閉めた。


「眠っている子もおりますので、ご配慮いただけると幸いです。空いているお部屋にご案内します」


 女性の後を付いて行くと、玄関は天井が吹き抜けていて大きな空間が広がっていることがわかった。螺旋階段が左右に登り、各階へ繋がっている。新しくはないが綺麗な造りをしていて、掃除も行き届いている様子だ。

 一階の廊下を進み、奥まった場所へ案内されると一つの扉の前で女性は立ち止まった。


「どうぞこちらをお使いください。女性の方には申し訳無いのですが、風呂はありませんので……。それと、用を足されるのであればその廊下を曲がったところにあるお手洗いを使ってください」

「わかりました、ご親切にありがとうございます」


 私が頭を下げると、ノエルも一緒に頭を下げた。先ほどからノエルの口数が少ないことが少し気に掛かる。


「それでは私はこれで……あ、それから朝は少々賑やかだと思いますので御免くださいませ」


 女性も軽く頭を下げると廊下を曲がって去って行った。

 私達は部屋の扉を開け、まずは明かりを付ける。火を直接ランプに灯すため火打石で着火部分に軽く火花を散らすと、あっという間に引火する。あとは燃焼材が続く限り火は消えない。


「どう? 上手くできたでしょう」


 私が自慢げに胸を張ると、ノエルは優しく笑う。


「お上手になられましたね」

「そうでしょ! ディオンの屋敷でたくさん練習したの。お湯張りも食器洗いも出来るわ」

「さすがレティシア様です。でも、私にも仕事を残しておいてくださいね。私のやることがなくなってしまいます」

「ふふ、そうね」


 私達はローブを脱ぎ、荷物と一緒に近くの棚に置いた。どうやら、この部屋の寝台は二人分きっちりあるようだ。内心、一つしか寝床がなかったらどうしようかと思ったが要らぬ心配だったようだ。暖炉や小さな机、椅子が二脚、仕切りの向こうには洗面台と、古めかしい室内は思ったよりも充実した家具が揃っていた。

 ふと、部屋の隅にあるテーブルに視線が行くと小さな木箱があることに気付く。


「ノエル、あれは何かしら?」


 小さな木箱をノエルが手に取る。箱には蓋が付いていて、中身は空っぽだ。


「これは……宿代を入れる箱ですね」


 箱の側面に書いてある文字を見たノエルが説明してくれる。


「孤児院が旅人に宿を貸して、旅人がお礼としてお金をここに入れる仕組みのようです」

「いくらでも入れていいの?」

「いくらでも……そうですね。募金のようなものですから」


 私は早速荷物からお金を取り出した。ここは孤児院だ。きっといくらお金があっても足りないくらいだろう。


「ちょっと多めに入れるわ!」

「ほどほどにお願いします」


 私はソレイユの街の宿代よりも多くお金を入れる。いくつかの硬貨が木箱にこつんと当たる音が心地いい。


「うんうん。一先ず、落ち着いたわね。先に食事をしましょうか」

「はい、かしこまりました。昼食の残りがありますので……あぁ、あの暖炉で温めましょう」


 そう言ってノエルは鞄から簡易鍋と昼食の残りを取り出した。ノエルは暖炉に近づき左手をかざすと、瞬時に火を着けてしまう。一瞬の出来事に私は驚き、思わず尋ねてしまう。


「ノエル。今のはどうやって火を付けたの?」

「これは、火の魔法です。そういえば、レティシア様に私の魔法を直接お見せするのは初めてでしたね」


 ノエル、何だか嬉しそうだわ。


「そ、そうね……」


 そうだわ。すっかり忘れていたけど、ノエルは魔法が使えるんだった。


 思えば、彼が私の前で魔法を使ったことはなかった。塔から逃げた時、洞窟に魔法を施したのも彼だ。もしかすると、塔から落ちた―――いや降りた時も何かの魔法を使ったのかもしれない。

 一緒に過ごした十年ほどの間、彼が私の前で魔法を行使しなかったのは、魔法を使えない私への配慮だ。


 でも、私が魔法を使えないのをノエルが知ったのはいつなの?

 そういえば、塔で魔法の勉強をしている時も彼は私が魔力のない人間だと既に知っていたみたいだけど……父上から聞いていたのかしら。


 そんな風にもやもやと考える私は捨て置き、ノエルは手際よく調理を始めていた。肉の燻製とパンを平たい鍋で軽く焼いて、カイから貰った新鮮な野菜を肉と共にパンで挟むとあっという間に夕食の出来上がりだ。ほんの少し、甘辛いたれも加えるのを忘れずに。部屋中に香ばしい香りが充満し、食欲に気持ちが急かされる。


「いい匂い、早く食べましょう!」

「はい、レティシア様」


 私達は部屋の隅に寄せられたテーブルに料理を置くと、ちょうど二脚ある椅子に座った。私の方の椅子は軋んだ音を立てたので少し焦ったが壊れることはなかった。

 そして、いよいよ香ばしい香りを放つパンを頬張る時が来た。一口噛ると、一気に幸福感が押し寄せてくる。


「うーん! やっぱりノエルは料理が上手ね、すごく美味しいわ!」


 口の中に溢れる凝縮された肉汁とさっぱりした葉野菜、そして決め手は真っ赤なトムトだ。これらすべてが合わさり、お互いに邪魔することなく調和する。甘辛いたれも絡み、更に旨味が引き出される。


「そ、そのようなお言葉……光栄です」


 あら、もしかしてちょっと照れてるのかしら。


「ノエルの作った料理には愛情をいっぱい感じるの、だから余計に美味しいって思うんだわ。ありがとう」


 屋敷で料理を手伝っている時にソフィが言っていた。料理を食べてもらう人のことを思い浮かべて、愛情を込めるとその料理はもっと美味しくなると。

 ノエルは少し落ち着かない様子で答える。


「レティシア様に召し上がっていただく料理は……いつも……その、大切に作っております」


 暖炉にくべられた木が燃え、ぱきぱきと音を立てる。その火の明かりがノエルの顔を赤く照らし、私は表現のし難い妙な気持ちになってしまう。


「そ、そう。こんなに美味しいものを作ってくれて本当に嬉しいわ」


 大切。そんな風に言われたらなんだか胸の辺りがむずむずする……落ち着かないわ。あぁもう、以前はこんなことなかったはずなんだけど。


 私達は何となく口数も少なく、夕食を食べ終える。私は椅子から立ち上がった。


「少し体を動かしてくるわ」


 こんな時は、少し体を動かした方がいい。旅が始まってから、雑念は運動をして振り払うようになった。少し体操したり筋力鍛練だけでも気持ちはすっきりとする。

 しかし、既に夜空が広がる時間帯に出掛けるのを私の心配性執事が止めないはずはなかった。


「レティシア様、もうおやすみの時間ですから。身辺を整えて休みましょう」

「でも、食後の運動で痩身もしたいの。少しだけ……」


 少しの沈黙の後、ノエルが口を開く。


「……レティシア様は、塔を出られてから頑張り過ぎです。野山を歩き、怪我もされたではありませんか。私は、いつかレティシア様が倒れてしまわれないか心配でなりません。万が一、命に関わるようなことになったら……私は―――」


 彼の口から絞り出された声は震えていた。小さく、圧し殺した声は泣きたい気持ちを押さえているのが私にも伝わった。

 私は酒場での出来事を思い出す。知らない人間にちょっかいを出され、今回は無事だったから良かったものの、もしかすると怪我をしたり命も危うかったかもしれない事態だった。そんな事のすぐ後に、一人で出歩くなど馬鹿が過ぎるというものだ。


「……ごめんなさい、私が悪かったわ。貴方に心配ばかり掛けて、考えが至らなかったわ。今日はゆっくり過ごしましょ」

「レティシア様……ありがとうございます」


 私の言葉に安心しきったノエルの顔。照れたような嬉しげで優しい笑顔、きっと誰も見たことのないその表情を見ると、暖かくて満たされたような不思議な気持ちになる。


 そして身支度をして眠りにつく頃、暖炉の火も消え孤児院での静かな夜が更けていった。

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