29食目 旅立ち
私は屋敷の門前にて、晴天にも恵まれ使用人としての仕事を終え旅立とうとしていた。見送りにはディオンやカイ、ソフィが来てくれ、私は名残惜しい気持ちになる。
「見送ってくれてありがとう。仕事をするのは初めてで、とても勉強になることばかりだったわ」
私は心を込めて深く一礼をした。
「本当にありがとう」
顔をあげると今にも泣き出しそうなソフィが私の手を優しく握ってくれた。
「レティシアさん、長い旅路ですから気を付けてくださいね。落ち着いたらお手紙くださいね。私、待ってますから」
「えぇ、もちろん。手紙だけじゃなくて、必ずまたここに来るわ!」
ソフィとは裸の付き合いもありすっかり打ち解けた。私の方は日常語だが、彼女は長い使用人生活で敬語が抜けないらしく、徐々に慣れる努力をするらしい。今度会うときまでには練習する、とのことだがその練習に付き合うのは一体誰なのか。それは考えなくてもすぐに答えが見つかった。
私がソフィの隣にいる仏頂面の大男を見ると、彼は両手に抱える大きな手提げ袋を差し出してきた。手に持つとゴツゴツしたものやふわふわした何かが入っているのがわかる。
「カイさん、くれるんですか?」
カイは大きく頷いた。
「畑で実った。君が食べてくれたら、こいつも喜ぶ」
こいつ、というのはこの中身のことだろう。どうやらカイ畑で採れたものが入っているらしい。カイ畑、というのは私が勝手に心の中で命名した彼の畑の呼び名である。おいしそうな野菜や果物を想像すると、急にお腹が減ってくる。
「ありがとうございます! おいしくいただきますね」
「……また、食べに来い」
「はい!」
そこへ、私とカイのやり取りを見ていたディオンが割り込んできた。
「君は食いしん坊だな。また太るぞ」
憎まれ口を挟みつつ、私の胸の辺りにずいと茶色の小袋を差し出した。麻で出来た巾着からは金属の擦れ合う音がする。
「これは?」
「道中の資金だ」
「そんな……受け取れないわ。お給金ならさっき貴方から貰ったもの」
私は巾着袋をディオンの胸に押し返そうとするが、逆にしっかりと手に握らされてしまう。それと同時に両手で力強く握られ、ぐっと体を近くに引き寄せられる。
「君の傍にいてやりたいが、それが叶わない私の思いだ。受け取ってくれ。私の願いを、望むものをくれる約束だろう?」
この屋敷、いやこの街にいなくてはいけない理由があるのだろう。どちらにしても、一緒に旅をするつもりはない。この旅の果てに待つもの……自由を手にするどころか下手をすれば処刑されかねない。そんな事態に彼を巻き込む訳にはいかない。
そういえば、彼の望むものをあげる―――そんな話をしたが彼から明確なものは示されなかった。
「えぇ、でも貴方が望むものって何? 私にあげられるもの?」
「あぁ、でも今はまだそれを伝える時ではない。次に会った時、それを果たしてくれ」
「……わかったわ」
結局、教えてくれないのね。
「―――さて、名残惜しいがお嬢さんの旅立ちを見送ろう。連れを待たせてはいけないからな」
ディオンは私の手を離すと、仰々しくお辞儀をしてみせた。それに合わせるようにカイとソフィもお辞儀をする。
「また会う日まで。―――麗しの豚姫様」
試すかのような彼の言葉に私は深く息を吸い込んでから投げ返す。
「豚姫様なんて呼ばせないわ。では、また会う日まで」
私も彼らに一礼して、門に背を向けた。彼らと過ごした僅かだが鮮やかな程に色付いた時間を思い、振り返りたい気持ちになる。私はぎゅっと目を閉じ、その想いを押さえて深呼吸をする。
私にはやらなくてはいけないことがある。城に行って、父上に私を幽閉しないよう申し立てしなくては。そして、今度こそ王女としての、私の人生を始めるのよ。
そこにはノエルもいて、学ぶべきこともまだたくさんあって―――
しばらく考えながら歩いていると、道の向こうに人影が見えた。まだ豆粒のようなそれが誰なのか遠くからでもはっきりとわかった。
「―――ノエル!」
私は思わず叫んで走り出していた。砂利に足と取られそうになりながら、荷物を落としそうになりながら、必死に走った。
この道のように、私の行く先にはきっと―――
「おかえりなさいませ、レティシア様」
「ただいま、ノエル!」
―――そうして、合流を果たした私達は街を後にした。ノエルと一緒にしたいことはたくさんあったが、私達は先を急がなくてはならず、後ろ髪を引かれる思いで小さくなる街に背を向けることとなった。
そして、驚くことにノエルが次の街への荷馬車を手配していたのだ。荷馬車と言ってもソレイユの街で生産された酒樽や工芸品を次の街へ出荷するための運搬用馬車だ。その荷物の隙間に私とノエルが乗せて貰えるのだ。本当に有り難い。痩身のために歩かなくてはならないが、たまにならいいだろう。
両手に余る程あったたくさんの荷物はノエルが整理してくれたおかげで小さく纏まった。カイがくれたのは野菜や果物、お茶の葉など、旅に必要そうな物資が入っていた。彼の優しさを強く感じて、顔が綻んだ。
街を出てからの道中はノエルと色々話しをした。私の仕事が終わることをディオンがノエルに教えてくれて、ノエルも同じように仕事に区切りを付けさせてもらったらしい。仕事を見つける時も、ディオンは初めから私達のことを見ていたように動いていた。すべてを見透かされているようでちょっと悔しいが、給金に加えて色を付けてお金が貰えたことは感謝してもしきれない。
彼の黒影鷲としての素性はノエルには秘密にしようと思う。もし知ったなら今からでも暗殺に行ってしまいそうだからだ。何より、他人の秘密を簡単に漏らしてしまうなんて品のないことはしたくない。
「―――それで、ノエルは順調だった?私は失敗ばかりよ」
完全無欠の鬼執事と恐れられた彼に聞くまでもないが、一応聞いてみる。
「はい。昼は例の喫茶店で働きました。……夜は、まぁ、少し……」
少し言葉を濁しているのはらしくない。何かあったのだろうか。
「もしかして眠れなかった?」
「あ、いえ……そうですね。ですので、仕事をしておりました」
なるほど、私が前に夜は仕事をしないように言ったことを気にしてるのね。
咎めてもいいが、ノエルが気まずそうにしているのが可哀想に思えてどうにも責める気持ちにはなれなかった。
「どんな仕事?」
「狩りです」
彼の口から出てきたのは意外な仕事内容だった。しかし、あの街で何を狩るのか。それに夜に活動する生物とは何なのだろう。
「へぇ、何を狩ったの?」
「……悪い動物です」
「害獣? 怪我はなかった?」
「えぇ……」
何となくノエルの言葉には元気がない。疲れているのだろうか。夜な夜な狩りをしていたら疲れが溜まるのは想像に難くない。
私は揺れる荷馬車の中で体制を整え、荷物を避けて足を伸ばした。そして、隣で珍しくぼんやりとするノエルの腕を引っ張る。そのまま彼の体を倒してしまうが、荷馬車の固い木の板にぶつかることはない。
何故なら彼の頭は、私の太ももの上だからだ。ノエルは綺麗な顔を驚きで満たしながら、下から私を見上げている。
巨木のような足だけど、少しは痩せてきたかしら。枕にはちょうどいい太さみたい。
「ノエル、頑張ってくれてありがとう。少し休みなさい」
思いの外、私の心臓は平静を保てていなかった。ディオンの美しい顔が近くにあっても平気なのに、どうしてこんなに心臓が高鳴っているのかわからない。間近にあるノエルの視線と目を合わせることも出来ず少し反らし気味だ。
「レティシア様、いけません」
起き上がろうとするノエルを両手で制止する。
「いいのよ、ゆっくり休みなさい。これは命令よ」
諦めたように大人しく寝転がるノエルの頭を撫でると、表情が柔らかくなった気がした。
こうしているとまるで母と子のようでくすぐったい気持ちになる。
「申し訳ありません、レティシア様……不甲斐ない私をお許しください」
「昼夜問わず働いたんだもの、誰でも疲れるわ。そうだ、良かったら子守唄を歌ってあげるわ」
私は記憶にある歌をゆっくりと口ずさんだ。遠い昔、母に歌ってもらったであろう歌は荷馬車の揺れる音に混じって眠りの協奏曲となる。
何の曲かも、音程が合っているかもわからないけど……。
母に尋ねたくても、もうこの世にはいない。
そんな母の残り香のような曲を口ずさんでいると、ノエルが静かに寝息を立て始めた。
そうしていると、私も荷馬車の揺れに誘われてうとうとしてきた。
母がいないのは寂しい、だけどノエルといると寂しさを忘れるほど落ち着く。私の安心できる場所がここにある気がする。
「ノエル、一緒にいてくれてありがとう―――」
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