28食目 からっぽの鳥籠
「……困ったわ」
私は昇り始めたばかりの朝陽を見つめて小さく呟いた。この屋敷で働き始めてから朝陽とはすっかり顔馴染みになったような気がする。
昨日は眠たくて、ついここで寝てしまったけれど……こんなことになるなんて思わなかったわ。
私は寝台に寝転んだまま、身動きが取れずに静かに息をするしかない状態だった。
掛け布団を握り締める私の隣には静かに寝息を立てるディオンがいた。ぬるい吐息が首元にかかって思わず鳥肌が立つ。彼はいつの間にか、いつもの銀髪の姿に戻っているようだ。
私が目を覚ました時、既に彼は私のことを抱き枕のようにして腕と足を絡めていた。腰の辺りにある腕が擽ったい。
彼のあまりにも穏やかで安らかな寝顔を見ると動きたくても動けないのが歯痒い。いっそ暴れて起こそうかという悪い考えが浮かんだが、それは砂塵のように消えていった。
可愛い寝顔……子供みたい。
ディオンの寝顔を眺め、もうしばらくこうしててもいいかと一瞬頭を過るが今の私は使用人だ。早くここから脱出して仕事を始めなければならない。
私はディオンから離れようとゆっくり体をずらしていく。小さく小さく、肉食の獣を起こさないようにするかの如く動く。
あと少しで腕から抜け出せるというところで、腰を押さえ込まれる。
「どこにいくつもりだ、姫君」
吐息混じりの眠たげな声は怒っているようにも聞こえ、私の心臓はまるで地面を跳ねる魚のように飛び上がってしまう。
「……ディオン、おはよう。今日も良い天気ね、洗濯日和だわ」
苦笑しながら誤魔化すが、当然そんなものは通用しない。
「逃げなくてもいいだろう。何せ、私と君の記念日なんだ。添い寝記念日」
わざとらしくそう言うと彼はニヤリと笑った。昨日の祝賀会への嫌みだろうか。
「私は使用人よ、もう仕事の時間なの。行かなくちゃ」
「私は君のご主人様だ、ここにいなさい。命令だ」
私の言葉を上塗りされて言い返すことが出来なかった。主人に逆らうわけにもいかず、私は渋い顔をして黙るしかない。ディオンは本当に意地が悪い。
「私はまだ眠いんだ……君を抱いて寝ると気持ちが良い、ぐっすり眠れる……」
そんな風に言われたら、命令されなくても行けないわよ。
私が溜め息をつくと、ディオンが喉の奥でくつくつと笑った。
「な、何がおかしいの」
「いや、君は素直だなと思ってね。それに真面目だ」
「そんなの……だって貴方は雇い主だもの」
「そうだな。その通り」
そう言ってディオンは体を少し伸ばしながら起き上がり寝台から降りると、朝陽のよく当たる窓辺に立つ。私も起き上がって寝台に座った。
彼の朝陽に揺れる白銀の髪を掻き上げる姿にしばし目を奪われる。朝露のような輝きを纏いつつも憂いを帯びた立ち姿はとても美しかった。
「しかし時には、その悪辣な権力に抗うことも必要だ。強大なものへ立ち向かうことが出来るのが君の強みなのだから」
「悪辣って、貴方は悪い人なの?」
私は重い口調で話す彼の背中に問う。もちろん本気で悪党だと思うならこんなことは言わない。
「さぁ? いつかわかるだろう」
「……お給金は貰うわよ」
「……その心配はご無用だ」
彼が悪ならお給金が貰えないかもしれないと思ったが、どうやらそういう訳ではないようだ。
ならば何が悪なのか、何かが私の行く手を阻むのか。彼は掴み所のない話しをするがそのくせ明確な答えを提示してくれない、彼自身も雲のような掴み所のない人だ。
「そうそう、君の仕事は今日で終わりだ。明日の朝、荷物を纏めたら私のところへ来なさい。ご所望の給金を渡そう」
「…………え?」
私は突然の解雇に驚きを隠せなかった。
こんなに短い日数じゃ、きっと全然稼げていないわ!
「そんな……もう少し働かせて!」
私は思わずディオンに詰め寄る。このままでは道中資金不足になってしまう。
「おやおや……そんなに傍に寄られると抱き締めてしまいたくなるな」
私は素早く一歩下がって、じとっと軽蔑の視線を送るとディオンは一笑した。
「ふふ、まぁそう興奮するな。私とて悪魔ではない、給金は弾むさ。何せ、お姫様と寄り添って寝たのだからな」
「嫌味な言い方に聞こえるわ」
「嫌味の一つくらい言わせてくれ、これから君と離れなくてはならないのだから」
そう言う彼は笑みの張り付いた顔のまま、寂しげに視線を落とした。寂しさを笑顔で誤魔化そうとしてるのに、隠しきれていないのだ。演技臭い彼の言動もこの時ばかりは本当の感情を見せている気がした。
―――一人ぼっちの小鳥みたい。
「……死ぬわけじゃない。また会えるわ」
嘘、きっともう会えなくなる。私は城に辿り着いたらまたどこかに閉じ込められるだろう。自由を奪われ、籠の中の鳥になる。
「そうだな。少なくとも今は仕事に行くだけ」
「そうよ、だから―――」
私はちらりと視線を腰の辺りに落とした。
「腰を掴むのは止めて」
「……目敏いな」
「どっちがよ!」
使用人としての仕事が今日で最後となると、物寂しい気持ちになった。元々、掃除や洗濯をする立場ではなかった私がこうして使用人の仕事に携われるのは貴重と言える。
私は朝一番に、今日で仕事が終わることをソフィへ報告した。突然のことにソフィは少し驚いてから、残念そうにしていた。カイにも庭掃除をしながら報告すると、無表情で小さく頷いてくれた。
まだ手際が良いとは言えない掃除や洗濯、料理をしているとあっという間に時間は過ぎて最後の夜を迎えてた。
一日の仕事が終わり、熱めの湯を張った湯船に浸かってぼんやりとしていると、突然浴室の扉が開かれた。
「ひゃっ!?」
驚いて小さく情けない悲鳴を上げるが、入ってきた人を見て安堵すると同時にぽかんとしてしまう。
「驚かせてしまってごめんなさい、レティシアさん。ご一緒してもよろしいかしら?」
入ってきたのはソフィだった。布を前に掛けてはいるものの、ほっそりとした女性らしい体がよくわかる。布を帽子のようにくるりと髪に巻いて、後れ毛が垂れているのが艶っぽい。
「あ、えっと、どうぞ!」
誰かとお風呂なんて初めてだわ、緊張する……!
「ソ、ソフィさん、どうしてここへ……?」
ソフィは私の隣へやって来てゆっくりと湯船に腰を落とした。水の成分で白濁した湯が小さく波打つ。
「レティシアさんと裸の付き合いをしたくてディオン様に宿泊の許可を頂いたんです。明日にはもう出立してしまうでしょう?」
「は、裸の付き合い……?」
「えぇ、仲良くなるための一つの手段です」
なるほど、一般的には裸で向き合うと仲良くなれるのね。良いことを聞いたわ。
ソフィはにこやかに笑う。その屈託のない笑顔が心にじんと染みて、嬉しさと寂しさが混じりながら胸に込み上げてくる。
「レティシアさん、王都に向かわれるんですよね」
「はい。でも馬を買おうにも高いし、乗馬は苦手なので……時間が掛かりそうです」
私は下を向いて湯にぼんやりと映る自分を見つめた。丸い顔には不安げな笑みが張り付いていた。
「歩いて行くには随分遠いですよ、体は大丈夫ですか?」
ソフィは本当に優しい。こんな私を心配してくれる。
「大丈夫です! 体は頑丈ですし、風邪も引いたことありませんから! ……たぶん」
一回くらいは風邪を引いたことがあったかもしれないが記憶にはなので、よしとする。
「ふふふ、レティシアさんってば」
ソフィの笑顔は風に揺れる花のように柔らかい。上品なのに可愛らしくて、穏やかな笑顔だ。
……あら? 肩に傷、かしら。
ふと見た彼女の肩に古傷があることに気が付いた。肌の色より濃い線が肩から背中の方へ向けて走っている。
「ソフィさん……その傷……」
思わず口に出してしまった。配慮に欠けた言葉にも関わらずソフィは特に気にする素振りはない。
「あ、これは……昔の傷です。もう随分前なので痛くはありません」
彼女が気にしなくても、私が気にする。こんな痛々しい傷、話しを振られるのも嫌だろう。
「ごめんなさい……失礼なことを言ってしまって」
「レティシアさん、気にしないでください。私は、これを見られるとわかっていて一緒にお風呂に入ったんですから。……よかったら、聞いて貰えますか?」
私は戸惑いながら小さく頷いた。
すると彼女は小さな声で昔話をしてくれた。
―――それはまだ彼女がこの屋敷に勤める前のことだった。
まだ幼い子供だった彼女は、両親と共にこの街を目指して荷馬車を乗り継いでいた。急斜面が多い山の中を走行中、運悪く車輪を悪路に取られてしまい荷馬車ごと崖に転落した。
幸い、崖の途中の木の枝に引っ掛かり底まで転落はしなかったが、肩から背中にかけて大きく怪我をしてしまった。両親も荷馬車も、乗り合いしていた他の人も、遥か崖下の森の中に消えた。
残された彼女は、心許無い木の枝に体を預け、大きく口を開けた森の奥底を見つめた。彼女は幼いながらも、その暗い木々の隙間から死の足音が近づくのを感じていた。次第に意識が朦朧とし遂に気を失った頃、気が付くと元の山道で手当てを受けていた。
「―――どんな方法であの場所から助けられたのかはわからないけど、私は命を救われたんです。それが、今の私の雇い主です」
つまり、ディオンが彼女を助けたということだ。気紛れな彼にとってソフィを助けるというのはどういう目的だったのだろう。ただの善意か、意図があったのか。何にせよ、彼女がこうして生きていられるのはディオンのおかげだ。
「そうなんですね……ソフィさんが生きててくれて良かったです」
「……両親を亡くし、悲しみに暮れることもありましたけど、私はここにいられて幸せです。ディオン様にカイ先輩、レティシアさんに出会えて、とっても嬉しいです」
そう言ってソフィは笑う。両親を亡くした悲しみが消えなくても、前を向いて自分の人生を歩む彼女を、私は心底尊敬し気持ちが奮い立った。
「ソフィさん、ありがとうございます。私は……自由を奪われる未来や運命を、知らないうちに肯定していました。道はそれしかないと盲目になっていました」
私は湯船から立ち上がった。大きな波が立って湯船の向こうまで揺らいでいく。
「でも、もう籠の中の鳥にはなりません。もっと幸せになる道を探します!」
まだ先は何も見えない、だけど真っ暗ではない、そんな道が見える。どんな色にも染まる、未来へ続く真っ白な道が。
「レティシアさん……私、応援してます! あの、それで、もし良かったら……私とお友達になって―――」
ソフィが言いかけて、その視線を恥ずかしそうに背けてしまう。
どうしたのかと思った瞬間、私は自分がすべてをさらけ出して仁王立ちしていることに気が付いた。
「あ! ごめんなさい! 私なんて失礼なことを……!」
慌てて体を洗う為の布で体を覆うと、ソフィはクスクスと笑った。
「いえ、レティシアさんのそんなところが大好きです」
彼女の笑顔につられて私も笑ってしまう。
今まで私は目標に向かって頑張っていたつもりだったが、それは全く間違いだった。私はただ川の流れのような成り行きに身を任せて流されていただけ。それをすっかり自分で歩いている気になっていた。
私はもう、籠に捕らわれたりしない。未来を、人生を歩むのは他の誰でもない私だ。
たとえ行く道を誰かに邪魔されて黒く染められてしまっても、全部塗り替えてやるわ!
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