25食目 花咲く甘露亭にて

 私達はソフィとカイを追って、街の市場にやって来た。精肉、青果の店が所狭しと並んで活気付いていて通りを歩くだけで心踊った。

 艶やかで美味しそうな赤身肉と脂が乗って照り輝く霜降り肉、瑞々しい青菜やずんぐりと実った果物、幅広い食材に目移りしてしまう。


「こんなにたくさんの野菜やお肉があるなんて! どれも美味しそう!」

「君はカイ達を探しに来たのではないのか?」

「そうだけど、少し見ていきたいわ!」

「やれやれ……ここはあまり得意ではないのだが、仕方がないな」


 そう言ってディオンは渋々付いて来てくれる。彼にとっては住み慣れた街の市場だが私にとっては初めての場所だ。何がいくらで売られていて、どんな種類があるのか興味深い。

 辺りを嗅ぐと、甘い香りや酸っぱい香り、様々な匂いが鼻腔を擽って楽しい。


「きっと、お店を回っていたらすぐ見つかるわ」

「そんなに丁寧に見回らなくても、特別なものはないと思うが」


 ディオンは文句を言いながらも私の後ろを付いてくる。その姿が親鳥に付いてくる雛鳥のようでほんの少しだけ愛らしく見える。


「そんなことないわ。私、こんなにたくさんの食材を見たのは初めてだもの! すごく楽しいわ!」

「……そうか」


 私が笑いかけると、彼はどこが物憂げな表情になった。


 人混みに疲れたのかしら? 今日はもうこのくらいにして今度はノエルと一緒に来ましよう。


「ごめんなさい、もうそろそろ行きましょう。ソフィさん達が待ちくたびれてるかもしれないわ」


 私は周りを見渡して二人を探すが、どこにも姿がない。大勢の人の波に紛れていても、カイなら頭一つ抜けて見えるはずだ。


「二人共どこに行ったのかしら……もしかして入れ違いに……?」


 そうだとしたら悪いことをしてしまった。私がうろうろ歩き回ってしまったせいだ。


「二人ならすぐに見つかるだろう。それより、こっちに来なさい」


 ディオンは私の手を握って市場から外れた道を歩き始めた。強く握られた手から彼の暖かい体温が伝わってきて少し緊張してしまう。突然のことに私は彼に引っ張られるまま歩くしかなかった。


「ちょ、ちょっと待って……ディオン! どこに行くの!?」

「私が行きたい場所だ」


 全く答えになっていない返事だが、予想の範疇を越えていなかったあたり、私も毒されてしまったのかもしれない。

 市場から出ると大通りに着き、更に進むと見たことのある店構えが現れた。


「ここは……」


 ノエルの働いているお店だわ。


 私は急に胸の鼓動が騒がしくなるのを感じた。


「ここで少し食事を摂ろう。味は保証する」

「でも、ソフィさん達が待ってるのよ。こんなにたくさん人が並んでると時間もかかるわ」


 私は店の入り口から伸びる人の列を見て少しうんざりしていた。もう長い行列に並ぶのは懲り懲りだ。


「気にすることはない。行こう」


 ディオンは私の手を握ったまま長い行列に並ぶかと思いきや、その横を涼しい顔で通りすぎて入り口へ向かう。

 並んでいる女性達がその姿を見逃すはずもなく、間もなく黄色い声が上がった。


「きゃーディオン様よ!」

「ディオン様! 素敵ー!」


 一瞬にして辺りは女性の歓喜の声に包まれ、私も耳が痛くなってきた。これだけ凄まじい騒音とも呼べる甲高い声を向けられると、さすがにディオンが嫌がるのもわかる。そしてその高い声に混じって低い声が聞こえてくる。


「何あの子……ディオン様にお手を取っていただいてるわ」

「何様なの? あんな変な子が……」


 私はその批難の視線や言葉に堪えられず目を強く閉じて、心にも蓋をした。


 怖い……何も聞きたくない。傷つきたくない。


 握られた手がぐっと強く引かれ、ディオンの隣まで引き寄せられると彼は小さく囁いた。


「恐れるな、君は強い女性だ」


 大勢の悪意ある視線に囲まれて、怖くないわけがない。彼を見上げると、凛とした横顔が前だけを見据えていた。一瞬だけこちらに視線を向け優しく微笑んだ彼は、黒影鷲のあの男とは似ても似つかぬものだった。


―――そうよ、何も恐れることなんてない。あの夜だって立ち向かった、豚姫と罵りを受けたって私は負けなかったのだから。


 ディオンと店の入り口に着くと彼は店員と目配せをして店内の奥へ行く。


「ここには特別室があってね、私専用なのだよ」

「そ、そうなの……」


 窓のない廊下は暖かみのある照明で照らされ、昼間だというのに夜と錯覚してしまいそうだ。

 廊下の突き当たりにある両開きの扉を開けると、私が走り回っても余裕があるくらいの広さの部屋があった。深青色の絨毯が敷かれ、中央には銀色の丸テーブル、同じ銀色の椅子が二人分置かれている。ここも黄色みを帯びた照明が吊るされ、窓がない室内を照らしている。

 ディオンが片方の椅子に座り、向かい合う形で私も椅子に座った。


「ここなら誰の目にも晒されることなく食事が出来る。安心だろう?」

「まるで全部見透かしているような言い方だわ」


 ディオンは喉の奥でくつくつと笑った。


「君の本心なんて手に取るようにわかる。君ほど分かりやすい人はいないだろう。もちろん君が抱いている私への疑念も然り、だ」

「それってどういう―――」


 黒影鷲のことは私とノエルにしかわからないはずだ。それなのに私は動揺してしまう。


 やっぱり黒影鷲と何か繋がりが―――


 私の動揺を余所に、ディオンは何喰わぬ顔でテーブルの鈴を鳴らすと、店員が私達の入ってきた扉とは違う扉からやって来た。


「ディオン様、ようこそいらっしゃいました。本日はいかがなさいましょう」

「彼女の好みそうな食事を」

「畏まりました」


 一礼すると、店員はまた奥の方へ戻って行った。ディオンがこの街で何らかの権力を持っているのは見ていて察しが付くが、随分と特別待遇だ。


「ディオン……貴方は―――」


 一体、何者なの?


 私は言いかけて、言葉を飲み込んだ。これだけの待遇を受け、街の人からも好かれている彼が何者なのか。知りたい気持ちはあるが、それを問うのは彼の内情に踏み込みすぎだ。

 昨晩の彼の姿が脳裏に浮かぶ。


―――嫌われ者。


「なんだ?」

「いえ、何でもないわ。何であろうと貴方は貴方だものね」

「わけがわからないな」


 ディオンは柔らかく一笑した。時に寂しげな顔をしたと思えば今度は悪戯っぽく笑ってみたり、柔和な顔をしたり、彼の表情はくるくると変わり私を翻弄する。


 そうだ、さっきのお礼を言わなくちゃ。


「あの……さっきは、ありがとう」

「なんのことだ」


 彼は肘をついて私を嬉しそうに観察している。


「私、皆の視線や言葉が痛かった……真っ黒な悪意が襲ってきて怖かった。でも貴方が私を思い出させてくれた。こんなことで私は下を向いて立ち止まれない、負けてなんかいられないって」


 ディオンを真っ直ぐ見つめると、彼の黄金色の瞳が私を捕らえていた。満月のような、星の輝きのような、美しい色だ。


「助けてくれてありがとう、感謝してるわ」

「……君が誰かにへし折られるのが嫌だっただけだ。君の強く美しい心を。だから―――」


 ディオンは立ち上がって私の隣に近づいた。仄かに甘い花の香りがして、気が付くと彼の手のひらが私の頬を包み込んでいた。


「私の物になるその時まで、美しく咲いていてくれ」

「えっ……?」


 彼が何を言っているのか理解する間もなく、突然、部屋の扉が勢いよく開かれた。


「レティシア様!」


 大きな音と共に鬼の形相で入ってきたのはノエルだった。きっちりと一人前の料理を手にしてそれをテーブルに置くと、私とディオンの間に体を捩じ込み押し退けた。


「ノエル、お疲れ様! 料理を持ってきてくれたのね、とっても美味しそう! あ、一人分しかないけど残りは後から?」

「何を呑気なことを仰っているのですか! 今、ご自分がどんな状況だったか理解していらっしゃらないのですか!?」

「あ、えっ? よくわからないわ……」


 ディオンは小さく笑いながら、怒るノエルと距離を取った。私もノエルと距離を離したい。


「どうしてそんなに怒っているの? 少しディオンと話していただけよ。彼は刺客じゃないのよ、危ないことはないわ」

「レティシア様……」


 ノエルは大きく溜め息を付くと、ようやく落ち着きを取り戻してくれた。半ば呆れられているような気もするが、考えすぎだろう。


「それで、こいつがディオンですね」

「こいつとは失礼だね。私はこの店の経営者であり君の雇い主、そして今は彼女のご主人様だ。君は敬意と言うものを持ち合わせていないのかね」

「生憎、私の敬意はすべてレティシア様へ捧げている。誰であろうと私とレティシア様の間に入り込む隙はない」


 ノエルはディオンを睨み付け、ディオンの方はこの状況を楽しんでいるかのように不敵な笑みを浮かべている。

 どうやらディオンはこの店の経営者らしい、特別待遇も頷ける。

 私は二人を交互に見ながら……いや、合間に料理を見ながらどうすべきか考える。


 どうしよう、こんなことをしている間に料理が冷めちゃう!


「二人とも、喧嘩しないで。ほら、料理が美味しそうだわ!」


 話しを逸らそうとする私の懸命な言葉は彼らの耳に入らず、虚しく消えていった。


「君のような心配性の執事がいると、彼女もさぞや息苦しいだろう。恋愛の一つも出来ず……可哀想なお嬢さんだ」


 ディオンの言葉を聞いた途端、私はぞくぞくと鳥肌が立った。否定できぬ事実が一瞬で見えてしまったのだ。


 ノエルのことは何も話していないのに、どうして執事だと知っているの?


 私は自分の愚かさを心の中で酷く叱責した。何故、気が付かなかったのか。屋敷で話した時のノエルを知っているかのような口振りや初めて出会った時の畏怖にも似た感情……あの時感じていた違和感、あれは間違ってなどいなかった。

 宿の窓辺に置かれた衣服、黒い羽、黄金色の瞳。すべてが疑いようのない一つの答えに繋がっていく。


 彼は知っている。ノエルのことも、きっと私のことも。つまり、それは―――


「……ディオン、もしかして―――」

「あぁ、用事を思い出してしまった。執事君、この話しの続きはまた今度にしよう」


 私の言葉をわざとらしく遮り、ディオンは早々に出口に向かって行ってしまう。


「レティシア、食事が終わったら屋敷に戻りなさい。あぁ、ここの支払いは気にするな。また後で」

「えっ……? ディオン、待って!」


 引き留めようとするが背中越しに言葉を投げた彼はすぐに出ていってしまい、後には私とノエルと冷めきった料理が残された。


「……レティシア様、大丈夫ですか?」


 ノエルは心配そうに私の顔を覗き込むが、私は何も答えることが出来なかった。

 ノエルの様子を見るに、どうやら私だけが気が付いてしまったようだ。


「……大丈夫よ」


 不安、恐れ、動揺……押し寄せる感情に堪えられず、私は椅子に力なく座った。


「ごめんなさい、少し疲れてるみたい」

「そうですか……あまり無理をなさらないでください。食事をして体力を付けましょう。あの男の奢りのようですから、思う存分食べてやりましょう」

「そうね、ありがとう」


 ノエルが早足で出ていくと室内は静寂に包まれた。

 ディオンは、黒影鷲と関わりがあるどころではなかった。恐らく、彼本人が黒影鷲だ。それ以外に行き着く答えが見つからない。ただ、容姿をどうやって変えているのか疑問が残る。歴史的に見ても魔法で容姿の変貌を可能にしたという史実は無く、あくまで物語や伝承といった夢物語の領域の話しだ。

 大精霊の力を借りればそれも可能になるかもしれないし、それに匹敵する魔力を持つ者がいれば話しは違ってくるかもしれない。しかし、そんな者がいるとすれば世界は均衡を保つことが出来ず崩壊するだろう。それだけ、この世界の魔法というのは影響力が強い。

 言い伝えによると、大精霊はこの世界を創造した神と呼べる存在だ。魔法の起源とされ信仰の対象だがその存在が確認されたことは一度もなく、配下である精霊もまた然りだ。


「全然わからない……」


 思考停止した。もはや考えるだけでは答えは導き出せない。


「直接本人に聞くしか―――いえ、もう詮索するのは止めましょう」


 私が塔から出ることが出来たのは、彼のおかげだ。やり方や目的は捨て置き、大変な毎日だが結果的に私は救われている。諦めていた自由を手に入れ、そして外の世界を知ることが出来た。それが王城に辿り着くまでの仮初めの代物だとしても、私は感謝している。


「レティシア様、お食事をお持ち致しました」


 ノエルが出来立ての料理を持って部屋に入ってくる。先程と同じ料理で、穀物を香辛料で炊いた具沢山の一品だ。刺激的な香りが食欲をそそる。


「ありがとう。ノエル、一緒にいただきましょう?」

「ご一緒で宜しいのですか? では、私がそちらを―――」

「駄目よ、こっちは私の。貴方は温かい方を食べて」


 皿を交換しようとするノエルを制止して、私は最初に出された料理を自分の前に寄せた。


「貴方には温かい食事を摂って欲しいのよ」

「レティシア様……」


 ノエルは感極まったのかその場で立ち尽くしている。

 私はこの後のことを考えると少し対処に困る気がして、早く座るように促した。


「ほら、一緒に食べましょう!」

「はい、レティシア様」


 はにかんだ笑みを浮かべた彼に釣られて私も自然と笑みが溢れる。


 私、もう少しだけ頑張るから……貴方も頑張ってね。


 私が食べ始めると、ノエルも料理を一口食べてぽつりと呟く。


「……あの男は嫌いです」

「ふふ、そうね」


 料理は冷めていても、ノエルと食事をするこの時間は温かい。


「あ、後で甘いものでも食べようかしら。この間、ケーキを食べ損ねちゃったものね! いいわよね?」

「私は判断致しかねます。ご自身の胸に聞いてください」

「……やっぱり、止めておくわ」


 甘露亭の甘くない執事に、乾杯。

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