22食目 君の名は
何も知らず、何もせず、ただ安寧を貪ってきた私にとって、働くということは意外にもとても充実したものだった。
調理場で一心不乱に食器を洗い、私は腕の服を捲った部分でじわりと滲む額の汗を拭った。
幸い、この屋敷の主人であるディオンの食器は銀製だ。私が力を込めて叩いたりしない限りこれを割ることはないだろう。
「調理器具も食器も洗ったし、後はこの辺りを拭いて終わりかしら。あっ、後はディオン……様のお部屋にお酒を持っていくんだったわね」
私は次の仕事を考えながら濡れた台などを拭いていた。窓の外は夜の帳が下り、ソフィも街にある自宅へと帰ると、この屋敷は一層静けさを増してしまった。
何だか寂しいわね……塔にいる時だって一人の時はあったけどこんな気持ちにはならなかったわ。何故かしら?
「……さぁ、ディオン様にお酒を持っていかなくちゃ」
ソフィに教えてもらった通りに酒とグラスを鉄製のトレイへ乗せて準備し、彼の部屋へと向かう。調理場を出て三階へ上がる階段の途中で躓きそうになったが、落とさずに持ち堪えることができた。
そういえば、体が少し軽くなったような気がする。もしかすると痩身の効果が出てきているのかもしれないわね。
そう思い、嬉しくなって廊下を歩いていると明るい月の光が差し込んで足元を照し出した。この屋敷はあまり光源がないので夜になると全体的に薄暗く、こうして月明かりがあると歩きやすかった。
「ディオン様、お酒をお持ち致しました」
そうして彼の部屋に辿り着き、扉を軽く叩いて声を掛けると、中から怠そうな返事が返ってきた。
「あぁ、入るといい」
「失礼致します」
片手でトレイを支えつつ扉を開けると、彼は窓際にある長椅子に腰を掛けて夜空を見上げていた。とても大きな窓の一面に夜空が絵画のように広がっている様は感嘆するほど美しかった。やはり光源の少ない室内に、その光景はとても映えていた。
私は彼の目の前にあるテーブルへグラスを置き、その中へ血のように赤い色をした酒を注いだ。熟成させた果実酒は甘い香りを漂わせながらグラスの中で揺れている。
「どうぞ」
「あぁ」
彼はまた怠そうに一言だけ呟くとグラスを手に取り酒を一気に喉へ流し込んだ。私は空いたグラスへまた酒を注いだ。
物憂げなその様子は、昼間の彼からは到底想像が出来ないものだった。
「君も一杯どうだ?」
「いいえ、私はお酒が飲めません。それに、まだ仕事の途中です」
「ふふ、真面目だねぇ」
彼はまた酒を口に運ぶが、今度は一口だけ味わうように飲んでいる。女性にも負けない艶やかな唇で酒を飲む姿は妖艶という言葉がよく似合っているように思えた。
「いつもは自分で用意するんだが、どうしても君と晩酌したくてね……つい呼んでしまった。機嫌を損ねてしまったかな?」
「いいえ。今は、私は貴方の使用人ですからそんなことは思いません」
私が、今はという言葉を強調しながら言うとディオンは微笑を浮かべた後、一気に酒を飲み干した。そんなに一度に飲んで酔ってしまわないのだろうか。
「ならば、晩酌は終わりにしよう。レティシア、ここへ座って」
ディオンは自分の隣へ促すように手を広げている。私は座りたくない気持ちを抑えつつ、彼の隣へ座った。
「今日はいつにも増して美しい夜空だね。まるで君の瞳のようだ」
普通の女性なら、愛の告白にも聞こえてしまいそうな甘い歯の浮く台詞だ。これが自然と口に出来るのだから恐ろしい。
「そうですか」
「そんなにつれない態度をされると口説きたくなるよ」
「面白半分で口説かれるのはいい気分ではありません」
何故だか彼には淡々とした冷たい態度をとってしまう。嫌いなわけじゃない、でも近くにいたら命を狙われているような身の危険を感じる。
私は居心地の悪さから何か話しをしなくてはと話題を探した。
「……何故私を雇ったのですか? どうやら人手不足という訳でもなさそうですし、お仕事があるのはこちらとしては有難いことです。不満もありません。でも―――」
「興味だよ」
ディオンは私の言葉を遮ってはっきりと言った。
「興味?」
私は訝しげに彼の顔を見た。
「あぁ、興味だ。それとも、道端で罵倒されて泣いている君が可哀想だったから……とでも言えば満足かな?」
至近距離で目が合うと、彼は意地の悪そうな笑みを浮かべた。美しい黄金色の瞳の中には私の姿が映っている。
「見ていたのですか!?」
私は顔に熱が急激に集まって来るのを感じながら、彼から咄嗟に目を逸らしてしまう。下を向いて握り拳を作って羞恥に耐える。
「君は同情を受けたい人間ではないだろうし、見られるのは不本意だろうな」
「少しはいい人かと思ったのに……あんな白々しく声を掛けるなんて! 貴方、ほんとは悪い人ですね」
「いい人のつもりはないさ。ただ君にはローブを貸してもらった恩もあることだし、借りたものはきっちり返さなくてはいけないと思っただけさ」
「今更いい人ぶっても遅いです」
ふと、私はローブが返ってきた時のことを思い出した。
「そういえば、ローブを返してもらった時のことですけど……大きな黒い羽が挟まっていて……何か知っていますか?」
尋ねるとディオンは私の纏め上げている髪の毛を指先で撫で上げた。その指が耳の際に当たり、妙にくすぐったい感覚に鳥肌が立つ。
「答えを知りたければ、私に敬語を使うのを止めたまえ。それに私のことは呼び捨てにするよう言っただろう?」
「……わかったわ。ディオン、お願い」
雇い主に敬語を使わないのは気が引けるが、要求なら従う。
髪の毛を触る手を払い除けると、ディオンは少しも残念そうにせず意地悪そうに笑うだけだった。
「私が君の部屋に行ったのはあの日の深夜だ。君にしては随分可愛い寝顔だったので起こさずにいたんだが」
ちょっと余計な一言が混ざっている気がするけど、わざとかしら。
ディオンは立ち上がって窓際まで行くと、大きな窓を両手で開け放った。冷たい夜風が室内に入り込み、私は身震いがした。
「あの羽は……一種の象徴とも言えるし或いは自己啓示欲を満たすためのものでもあったかもしれない」
「……よくわからないわ」
彼にとってあの羽を入れたのは意味のあることだったらしいが、私はその真意を全く掴むことが出来ない。
「貴方は人から好かれているし容姿端麗、それにこんな大きな屋敷を持つ貴族でしょう? 自己啓示欲なんて言ってるけれど、不満に思うことでも?」
「……君は何か勘違いをしているようだ。私は貴族ではない」
「……え?」
こんなに広い屋敷に住んでいながら貴族ではない、それならば一体何者なのか。彼の背中を見つめながら問う。
「貴族でないなら、貴方は何者なの?」
私はひょっとすると関わっては行けない人と関わってしまったのかもしれない。背中にぞくぞくと悪寒が走る。
「私が何者か……ふふ。それは自分でもわからない。だが、一つ知っていることがあるとすれば……」
ディオンはゆっくりと振り返り、大きく開いた窓を背に両手を広げた。黄金色の瞳が私を捕らえて放さない。
この姿はまるで―――
「嫌われ者、さ」
あの日見た、襲撃者に似ていた。
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