21食目 花咲く甘露亭

 夕刻、私は与えられた屋敷の空き部屋で荷物の整理をしながら溜め息をついた。

 昼食後、仕事を終えて宿屋に自分の荷物を取りに行かせてもらったのだが、その時のことは何度思い返しても胸が痛んだ。

 荷物と言っても逃げるように塔を出た私にとって持ち合わせる物など極僅か、目的はノエルに就職報告をすることだった。いきなり主人が消えたとなれば、ノエルは街の石畳をひっくり返す勢いで私を探すだろう。

 そういうわけで、私はきっちりと彼に説明をする必要があった。

 泊まり込みで使用人の仕事をすることを―――






 早々に宿に着いた私は、宿の主人から聞いたノエルの就職先を訪ねていた。就職先の決まったノエルは主人へ伝言を残して早速働きに出たらしい。実に勤勉だ。

 客達がざわつく店先で私は二の足を踏んでいた。


「えーと、ここよね……花咲く甘露亭……だっけ」


 随分乙女的な名前も実際、店に来てみれば納得のいくものだった。店先を彩る数々の美しい花と、華々しくも上品な建物、その細部まで乙女心を擽る可愛らしい装飾がなされている。草花や愛らしい小動物の造形物が見受けられ、さながら物語に出てくる妖精の家だ。


「こんなところで働いているのね……いや、こんなところだなんて失礼だわ。でも、何のお店なの?」


 女性達が入り口から長い行列を作り何やら騒いでいる。私はとりあえずその一番後ろへ並んで彼女達の話に耳をそばだててみることにした。どちらにしても、店内に客として入らないとノエルと話が出来なさそうだ。


「あぁ、楽しみね!」

「私も! 早く店内に入りたいわ~」


 前から女性達の期待に満ちた会話が聞こえてくる。彼女達にとって楽しみなことがあるらしいがそれがこの行列の元凶だろうか。


 早くノエルに仕事のことを話して帰らなくちゃ。私もまだ仕事があるもの。


 私は落ち着きなく辺りを見回したり前の方を覗き見たりして順番を待った。

 ようやく店内に案内される頃には私は最早疲れきっていた。私は立つだけというのは案外、歩くよりも退屈で精神的に疲れるものだと知った。


「花咲く甘露亭へようこそいらっしゃいました。一名様ですね、お席にご案内致します」


 そう言って恭しく頭を下げたのは店員の男性だった。白黒の服に胸には黄色い花を挿して、清潔感溢れる見た目はまるで執事のようだった。店内は男性店員ばかりのようだが、彼らの容姿はノエル程ではないにしろ随分整っている。なるほど、女性客が多いのも頷ける。

 私が案内されたのは店外の座席で、太陽を遮るための大きな日差し避けが各席に完備されている。机も椅子も女性が好みそうな純白で優雅な曲線美を描くもので統一されていた。

 私は促されるまま椅子に座ると男性店員が少し驚いた顔をしていた。


「……あの、何か?」


 店員は私の呼び掛けに我を取り戻したのか焦って頭を下げた。


「も、申し訳ありません。お客様があまりに自然で優美に腰を掛けられたので……どこかの国の姫君かのように見えまして」

「そ、そんな私が姫君だなんて。うふふふ」


 まさかこんなところで正体が露見するなんてそんなこと……有り得ないわよね? お店のおもてなしとして褒めているのかしら。


「大変失礼を致しました。では、改めましてご注文をお伺い致します。本日のお薦めはこちらの紅茶と蜜掛けケーキでございます」


 男性店員は手に持ったお品書きを見せてくれたが、正直何でも良かった。私はノエルに会いに来たのだから。


「そのお薦めをお願いします。あと、ここにノエルという新人がいるはずだから彼に注文した品を持たせてください」

「畏まりました。少々お待ちくださいませ」


 私は凛とした姿勢と態度で注文をしたが、内心は喜び踊っていた。何故なら、甘いお菓子を食べられるからだ。


 久々のちゃんとしたお茶の時間だわ! 紅茶にケーキなんて塔を出て以来だもの、楽しみ過ぎて天にも昇りそうだわ!


 空を見上げると、塔で見たあの美しい青空があった。塔もこの街も澄んだ青空が広がっているが、似ていても大きく違うところがある。それは、阻まれるものがなくどこまでも続く大空だ。塀のない、境目のない自由に飛んで行けそうな空。


 あぁ、翼があれば飛んで行きたいわ。


「レティシア様!」


 ぼんやりと空を見上げていると、聞き慣れた声が私を呼んだ。


「レティシア様、あぁこんなところまで私に会いに来てくださったのですね! このノエル、天にも昇る気持ちです……!」


 ノエルは過剰に喜びを表現しながら私に跪く。気が付くと、彼の仰々しい接客に周りがざわついていた。


 余り目立つことは避けて欲しい……。


「ええ……それはそうと紅茶とケーキを頂戴」


 対象は違えど、私とノエルの気持ちは一緒だった。テーブルに紅茶とケーキが置かれるとノエルが慣れた手つきで硝子のティーポットから紅茶をカップに注いだ。

 立ち込める湯気に私は胸いっぱいに深呼吸してその芳醇な香りを堪能した。

 そしてカップを口に運び深い黄金色の紅茶をゆっくりと飲み一息つく。


「美味しい、それに素敵なところね」

「レティシア様のお側に比べたら天と地の差です。もうお仕事はお決まりですか?」

「えぇ、とある屋敷で使用人として働くことになったの。泊まり込みで」


 私が蜜掛けケーキにフォークで狙いを定めながら説明すると、座る私に目線を合わせ跪くノエルが顔面蒼白になってしまっていた。


「し、使用人……泊まり込み……」

「泊まりと言っても深夜に仕事はなさそうよ。それに私の宿代もかからなくなるから、その分早くお金を集められそうなの。いい案件でしょう?」


 それに、賃金も他で募集している仕事よりも高い。やはり高賃金、これにつきる。


「レティシア様、今からでも別の仕事になさってください。もしくは宿でゆっくりお過ごしいただいて、仕事など私に任せて―――」

「駄目よ」


 私がぴしゃりと却下すると、ノエルは口を閉じた。心配そうに眉を下げて見つめる視線が私の心に罪悪感を生んだ。


 そ、そんな目で見られたら心が揺らぐじゃない……いいえ、ここは心を強く持たなくては。


 主人にはっきりと拒絶の意思を示されたのだから、彼としてはこれ以上口を出すわけにはいかないだろう。

 私は持っていたフォークを置いて彼に向き直った。


「勝手に決めてしまったことは謝るわ、ごめんなさい。でも私も頑張りたいの。貴方に支えてもらってばかりは嫌なの」


 優しく諭すように言うと、益々ノエルは落ち込んでしまったらしくすっかり肩を落としている。


「それは……私が必要ではないということですか?」

「違うわ、そうじゃない。貴方が大切だからよ」


 大切な人の為に頑張りたいと思う気持ちは、どんな困難にも負けないくらい強い。それは私の強い食欲でさえ敵わないほどだと思っている。辛くて心が折れそうになっても、前を向いて進むための力になる。

 私がこんな風に思えるのは彼のおかげだ。


「……そのように仰るのはずるいです」

「少しは納得してもらえたかしら?」


 ノエル、私は貴方のために頑張るわ。


「はい。……どうか、お気を付けて。お会いできない時間も、私は貴方様のことを想っております」


 そう言って私の手を優しく包むように握ったノエルの手は温かく、陽だまりの中のような安らぎを感じた。


「大袈裟ね、すぐに会えるわ」


 私は自然と彼の手を握り返していた。もし母がいたのなら、こんな風に優しく微笑みながら手を握るのだろうか。

 ならば彼に対するこの穏やかで満ち足りた感情は恩愛なのだろうか。


「……あのぉ、お客様」


 私は誰かに声をかけられて遠くに行っていた思考が引き戻された。横を見やると、最初に案内をしてくれた男性店員が困ったような笑顔を浮かべている。


「お身内の方と存じますが……彼には仕事がありますので、そろそろ……よろしいでしょうか?」


 そう言われて私はすっかり二人の世界に入ってしまっていたことに気が付く。慌てて手をノエルから離して膝の上に置くと、一つ咳払いをして誤魔化す。


 私、たぶん恥ずかしいことしてたわよね!? どうしよう、今更ながら周りの人からの視線がすごく刺さる……! それにノエルの仕事も停滞してるし、私事で皆さんに迷惑をかけてしまったわ。


「ノエル、もう仕事に戻っていいわ。私も用は済んだから帰るわ」


 私はテーブルにある代金の書かれた紙を見てお金を置いて立ち上がった。


「レティシア様、もうお帰りになられるのですか? こ、こちらのケーキを召し上がっていかれては? 何なら、私がお手伝いしましょうか?」

「いいのよ、私は痩身しなくてはいけないのだから。貴方が食べてしまって」


 私は甘い誘惑を振り切ると店員にお辞儀をして出口に向かった。勿論、甘い誘惑とは蜜掛けケーキのことであってノエルが食べさせてくれることではない。

 少しだけその場面を想像してしまって鼓動が早くなる。


 な、何を考えてるのよ……私は!


 しかし、逃げるように店から出た私は酷い後悔の念を抱いていた。


「やっぱり、ケーキ食べておけば良かったわ……蜜掛けケーキ……」


 振り返って店を見るとまだまだ行列が途絶えることはなさそうだ。

 私は大きく溜め息を漏らしながら、店を後にした。きっと私が逃がした獲物は、甘露な花の如く麗しくそして美味しかったのだろう。想像は虚しく廻るばかりだった。

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