18食目 黒と白
「―――とんだ盗人ですね」
時刻は夕食の頃、賑わう宿の食堂でノエルと魚料理を味わっていた。宿屋に来る前に出会ったディオンという男性について話していると、ノエルはそんな悪態をついたのだった。
「そんなこと……きっと返して貰えるわ」
私は焼き魚の身をほぐして食べる。軽くまぶした塩が川魚の旨みを引き立て、ほんのりと甘味を感じてとても美味しい。まったく臭みがないのは魚が新鮮で、尚且つ良い環境で育った証だろう。
その他にも新鮮な生野菜に果物、穀物を蒸して潰した団子もある。実はこの団子がつぶつぶとした食感を残しつつもっちりとしていて、噛めば噛むほどに穀物の甘味を舌全体で味わえる素晴らしい一品だった。
確かに、ディオンが言っていた通りこの宿の食事は美味しい。この件に関しては感謝しなくてはいけない。
「しかし、了承もなく衣服を剥ぎ取り、その上返す約束もないのでしょう? ならば盗人です。その男を探して報いを受けさせなければなりません」
「大丈夫、きっとすぐに見つかるわ。有名人みたいよ、その人。女の人達がディオン様ーって追いかけてたもの」
ノエルは自分の知らない所で私が追い剥ぎされていたのが面白くないようだ。それに、私が逸れてしまったことに対して彼なりに責任も感じているのだろう。
「―――ごめんなさい。私がノエルにしっかりついていけば余計なことにならなかったのに」
「いいえ。私の配慮が足らず危険な目に合わせてしまい申し訳ありません」
ノエルが謝って頭を下げると、綺麗な黒髪が目の前でさらさらと流れた。私はどうしようもなく悪戯心に擽られその頭を右手でくしゃくしゃと軽く掻き乱す。
驚いたのかノエルが珍しく呆けた顔で私を見上げた。瞬きをする度に長い睫毛が忙しなく上下に揺れている。
「あなたは悪くないわ! すべて私自身の責任よ! そんなに呆けた顔をしてないで、ご飯を食べたら早く休みましょう」
私、何してるのかしら。ノエルの髪の毛を見たら触れて撫でたい衝動に……あぁ恥ずかしい。この感覚……小動物に触りたいような、うずうずする感じだわ。
私は残りの食事を平らげてしまうと先に寝室に行くことにした。恥ずかしくて一緒にいられそうもない。
古い木の階段を登って廊下を真っ直ぐ行き、部屋に入ると扉を背にして大きく溜め息をつく。
「本当に、どうしたのかしら。私は……」
まださらさらとした感触の残る手を見る。一緒に塔で過ごしてきても、ノエルを美しいと思うことはあったかもしれないが緊張してしまうことなんてなかった。
もっと普通にしていたい……。普通に、一緒に、話して笑って傍にいられたら。
窓から射し込む月明かりだけが室内を仄かに照らし、この薄暗い空間が私を落ち着かせてくれた。
部屋には寝台が一つあり、ここに寝られるのは一人だけだ。つまり私とノエルは別の部屋で寝泊まりするので、ここには誰も来ないということだ。
私は寝台に思い切り体を投げ出して目を閉じた。
もう寝てしまいそう……体、綺麗にしたかった……。
歩きすぎたせいで太ももの皮膚が擦れて痛いが、今はそれよりも疲れの方が勝っている。食欲が満たされた後は睡眠欲か、瞼は重く微睡みから強い眠気へ変わっていくのを意識の遠くで感じた。
―――眩しい。
無用心にも開け放ったままの窓から射し込む朝陽が私の瞼を擽った。鬱陶しさを感じながら目を擦り大きくあくびをすると、上体だけ起こしてぼんやり窓の外を眺めた。
眠たい……もう少し寝ていたい……。でも、起きなくちゃ朝ご飯を食べ損ねちゃうわね。
寝癖で乱れに乱れた髪を触りながら小鳥が屋根の上を飛び交う様子を見ていると寝る前には無かった物が窓際に置いてあることに気が付いた。
「ん……? 何かしら?」
見たことのある深い青色の布地に私は一気に目が覚めた。
「こ、これって……!」
慌てて寝台から降りてその布を手に取り広げると、滑らかな布地に花の刺繍が縫われたローブだった。
間違いない、これは私のローブ!
広げた拍子にひらひらと宙を舞いながら黒い何かが落ちた。
「……鳥の羽?」
拾い上げてみると、それは私の手のひらより少し大きな黒い鳥の羽だった。偶然服の間に入り込んだのか、何かの目印に挟み込んだのか。
「昨日の夜、返しに来てくれたのかしら?」
もし部屋を訪ねてくれたのなら悪いことをしてしまった。すっかり寝入ってしまって夜から朝へ飛んで来てしまったような気さえするくらいだ。
「あのディオンって人、何処にいるのか知らないし、返してもらえて良かったわ。ノエルにも教えてあげなくちゃ! でもその前に身支度をして―――」
黒羽を腰の衣嚢へしまうと私は鏡台に座って髪を整えた。塔にいる頃から最低限の身嗜みくらいは自分でやっていたし、箱入り娘ならぬ塔入り娘であってもこのくらいは朝飯前である。
衣服の汚れを軽く落として部屋に備え付けてある洗面台で顔を洗い、宿が用意してくれた布で水を拭う。少し乱れた前髪を整えれば準備は万端だ。湿った顔に早朝の爽やかな空気が触れて気持ちが引き締まる。
「よし! 朝食よ!」
夕飯の川魚も美味しかったから、朝食も期待しちゃうわ!
私が自室から出ると静まり返った廊下に木が軋む音が寂しげに響く。人が起きるには少し早い時間だったらしい。
ノエルはもう起きてるかしら、一緒に食堂へ行きたいわ。
私は隣の部屋の扉を手の甲で軽く叩くが、返事はなかった。この旅が始まってから知ったのだが、彼はいつも私より遅く寝て早く起きているようだ。今日もそうだろうと思ったが返事がないなら寝ているのか、はたまた留守か。
そういえば昨日の夜、盗人には報いをとか言ってた気がする……もしかしてローブを取り返しに行ってそのついでに八つ裂きにしてるなんてこと……ないわよね。
急にゾッと寒気がして私は部屋の中を確認しなければと強い使命感にかられ扉に手を掛ける。
「ノエル起きてる? 開けるわよ」
了承を待たず扉を開けると、正面に置かれた寝台がふっくらと人の形に盛り上がっているのが見えた。黒髪も布団の端に僅かに覗かせている。
私は溜め息を漏らしてほっと胸を撫で下ろした。もしあの有名人が流血沙汰にでもなれば、街の女性達から強烈な批判や報復を受けることになるかもしれなかったからだ。そうなればこの街では日銭を稼ぐどころか滞在さえ危うくなる。
それにしても、こんなに布団に潜って寒いのかしら。
もぞもぞと蠢く布団に近づき覗き込むと、突然布団が大きくはね除けられる。同時に腕を強い力で引っ張られ、私の視界が横にぐるりと回ったと思うと背中を寝台に叩きつけられる。その衝撃に思わず目を瞑る。
「きゃあっ!?」
寝台がギシギシと大きく軋みながら私の体重を支えてくれたお陰で痛くはなかった。驚いて悲鳴こそあげたものの恐怖はなかった。
急に引っ張るなんて怪我したらどうするの、なんて言おうと思いながら目を開けると、私はしばし硬直した。
「……レ、レティシア様……?」
あまり感情の出ない端正な顔にほんの少し驚きの表情を見せながら、宝石のように透き通った紫の瞳が私を見下ろしていた。
この状況って……。
私はノエルの寝ていた寝台に倒され、その上に彼が腕をついて覆い被さる形になっている。
状況を把握するのにどれだけ考えただろう、実際は僅かもない時間がゆっくりと流れているように感じた。
一気に心拍数は跳ね上がって顔に熱が集まってくるのを必死に落ち着けようとするが、そこで少し視線を落としたことによってそれは絶対的に不可能となった。
白く若々しい肌に整った筋肉、鎖骨の美しいまでの曲線が私の視界と思考を埋め尽くした。
彼は、村の川で見た時のように裸だった。
なんで裸!?
様々な思考を経て単純な疑問が浮かぶと同時にノエルが私の上から光の如く飛び退いた。この一連の流れは決して長い時間ではない。
ノエルは寝台の隅まで素早く距離を置き、口元を片手で押さえながら狼狽えていた。
白い肌に薄紅に染まる頬や耳が目立つ。
「ノ、ノエル……急に腕を引っ張るなんて危ないわよ。でも、驚かせちゃったならごめんなさい」
私は激しく鼓動する心臓の音を聞きながら、寝台から起き上がる。ノエルに視線を少しだけ向けると、裸というより半裸のようだった。しっかり下着は履いてくれている。
……って、私はどこを見てるの!?
「申し訳ありません。レティシア様とは思わず無礼な真似を……」
「いいえ、私もこんな朝早くに訪ねるなんて悪かったわ。さぁ、朝食を食べに行きましょう! きっと美味しい果物や野菜がたくさんあるわよ。あっ、甘いものは我慢しなくてはね」
私、取り繕えてるかしら? 普通に見えてるといいけど……。
「それから、ノエルはちゃんと服を着て寝なさい。風邪をひいてしまっては、働けなくなるわよ!」
「も、申し訳ありません……気を付けます」
依然としてノエルは視線を落としたまま目が泳いでいる。気まずいのも致し方ない、何故なら絶対服従であり忠誠を誓うべき主人に対して暴力的な行為をしたのだから。
しかし、私はそれを咎めるつもりは全くない。
根本的な原因は私だものね……責められる立場ではないわ。
自分の行いを悔いる内に、私はすっかり平静を取り戻していた。
「それでは、食堂で会いましょう」
私は扉に向かうとさっさと部屋から出て、後ろ手に扉を締める。
ゆっくりと深呼吸をして気持ちを宥めると、大事なことを言い忘れていることに気がついた。
「ローブが戻ってきたこと、言い忘れたわ……。そういえば、この羽のことも聞こうと思ったのだけど……これは今度またあの人気者に会ったときに聞いてみましょう」
私は一階の食堂に向かって歩き出した。
またあの男―――ディオンに出会えるかは保証されていないが、数日滞在していれば嫌でも耳に入るだろう。
何せ、有名人なのだから。
「……何であんなに人気者なのかしら」
単純に美麗な容姿をしているからか、とてもお金持ちだからか、はたまた女たらしなのか。憶測をいくらしたところでわからないものはわからない。宿屋の主人にでも聞くか道行く女性に声をかけてみることにして、私は足取りも軽く朝食に思いを馳せる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます