15食目 奉仕と邪念は似て非なるもの
早朝、白い雲が流れる青空の下で私はその爽やかな空気に似つかわしくない大きな溜め息をついた。
昨日は昼の二度寝をしてから朝まですっかり寝入ってしまい、太陽が昇る前に目覚めるという失態を犯してしまったのだ。何という自堕落、体たらく。これでは王女として、いや人として恥ずかしい。
「起きたらノエルはいないし、また一人ぼっちだわ……」
私は先日の森での出来事を思い出す。洞窟に施された魔方陣によって私は戻ることが出来ず、寒気のする森の中で一人膝を抱えて座り込んでいたのだ。その時の孤独感や寂しさは世界に一人きり残されてしまったような寒々としたものだった。
「それにしても、ノエルはどこに行ったの? 家の中にもいないし、村長さんのところかしら?」
私は寝泊まりをした集会所から少し離れた林の中を歩いている。どうにも彼を探さないことには、昨日ジルから貰ったケーキも食べられないからだ。
つまり、私はお腹が空いている。
これ以上歩いて余計にお腹が減ってしまう事を恐れ、私は来た道を戻ろうとするが、ふと耳に涼やかな音が聞こえてきて足を止める。
水の流れる音―――
サラサラと止めどなく続く水音から察するに大きな川が近くにあるようだ。搭に幽閉されていた私は、本の挿し絵などで河川がどういうものなのかは理解はあったが本物の河川を見たことがない。
興味をそそられ音のする方へ歩くと、人が横に五人ほど寝転んだくらいの大きさの川が流れていた。
「すごい……これが川?」
大振りだが滑らかな表面をした石が川に沿っていくつも転がり、私はその上をおぼつかない足取りでゆっくりと渡る。所々、苔むした石があり気を付けないと転んでしまいそうだ。
川縁に辿り着いた私は、水面を覗き込む。穏やかに流れる水は透き通って淀みがなく、昇り始めた朝日が乱反射してとても美しかった。水底では小さな水生生物が石の苔をちまちまと食べている様子が見える。
「綺麗……こんなに美しいなんて、想像も出来なかった……」
水に触れると、歩いて熱くなった手のひらの熱を奪われて心地よかった。
その冷たさに浸っていると川の流れとは別の水音が聞こえてきた。水を汲みに誰かが近くにいるか、動物が水浴びをしているのか。
「誰かいるのかしら、ノエルだといいけど……」
ここよりも少し下流、人よりも大きな岩がいくつか見えるその向こうから聞こえる。私は大岩を回り、その姿を確認しようと近づいた。
万が一、狂暴な野性動物ならば危険は避けられない。行かなければいいのに、どうしても好奇心を押さえられなかった私は、そっと岩影から視認を試みる。
「―――っ!!」
私の目に飛び込んできたのは、思いもよらない光景だった。今まで生きてきて初めて見るものに私は気が動転し、息が苦しくなる。
こちらにやや斜めに背を向けた男性は、衣服を一つも纏わず腰の辺りまで入水し穏やかな水流に溶け込むように立っていた。
水に濡れ皮膚に張り付く黒髪、長身で男性的な筋肉が隆起する体、白くも健康的な肌は艶かしく水を滴らせ、それは朝日でより美しく昇華されていた。
な、な、何でここにノエルが!? 何で裸でびしょ濡れなの?
その男性がノエルだと気が付くまで時間が掛かった。それもそのはず、髪も濡れて整っておらず衣服を着ていないだけで体格も一回り大きく見え、いつもとは全く別人のようだった。
耳にうるさいほど心臓は暴れ狂い、足は硬直し、呼吸も乱れるほど緊張していた。
そんな私の視線に気が付いたのか、彼は紫色をした瞳をゆっくりとこちらに向けてきた。
「レティシア様?」
その声に弾かれたように、私は背を向けて走り出した。
「ご、ごめんなさい!!」
それは脱兎の如く、弓矢よりも風を切って、人生で最大速度を記録したであろう早さで逃げ出した。
な、何で私逃げてるのー!? でもあの状況でなんて答えたらいいかわからないんだもの!
自問自答をしながら林を抜け、集会所まで走った。ようやく建物に入ると勢いよく扉を閉めて乱れた息を整え精神統一をする。
落ち着いてレティシア、あれは事故なのよ。あんなところで水浴びをしている人がいるって誰が想像できる? それに私はノエルの主、少しくらい見てしまっても―――
「……見てはダメよね、未婚の私がそんな、男性の裸なんて―――」
考えれば考えるほど、目に焼き付いた光景が延々と繰り返し流れてくる。私は未だ早い脈を打つ心臓を抑えるため、そんな邪な光景を振り払うため、その場で屈伸運動を始めた。
しかしそれも効果はなく、今度は両腕を回したり腰を捻ったり体操をする。
「邪念よ消えろ……邪念よ消えろ……」
独り言を呟いているうちに、自分が教会の修道女になったような気持ちになる。これは一切の欲望や邪念を振り払う修行なのだ、悪魔の誘惑に耳を傾けてはいけない。
ついに私は壁に向かって祈りを捧げ始める。
「あぁ、大精霊様……どうか私をお救いください……この罪をお許しください……!」
もう頭の中は大混乱だ。それほどまでに、先程の光景は私にとって衝撃的だった。性に関してまったく無関心でいた自分に後悔の念すら覚える。異性の裸体を見るのは愛し合う男女が婚姻して、子を成す時らしい。詳しくは知らないが、その時になればわかるとノエルが教養の座学で言っていた。
その時、玄関口から邪念の元凶が帰ってきた。
「レティシア様、おはようございます。朝食にいたしますので、しばらくお待ちください」
ノエルは何食わぬ顔で室内に入ると、そう一言告げて食事の準備に取りかかろうとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
「はい、何でしょう」
振り向いた彼の表情は無、特に何の感情もないように見える。
「さっきのことだけど……その、ごめんなさい。散歩していたらたまたま見てしまって……悪気があったわけでは……」
彼は私の苦しい言い分を何も言わずに聞いてくれた。本来なら一人歩きも覗きも淑女としていかがなものか注意を受けてもいいはずだが、彼はただ黙って私を見ていた。
いやむしろ、嫌だったとか恥ずかしかったとか気を付けてくれとか何か言ってくれたほうが気が楽になりそうだ。
「こちらこそ、お見苦しい所をお見せしてしまい大変申し訳ありません。以後気を付けます」
「いいえ! 気を付けるのは私の方だから! 叱ってくれていいのよ!?」
ノエルは整った眉を少し困ったように下げて、目を逸らしてしまった。
「……私はレティシア様の執事です。主人に見られて都合の悪いものなどありません。……使用人や執事といった身分の者は、己の主人に夜の奉仕を求められることも少なくありません。裸を見られたくらいで叱責など、とんでもございません」
私は突然飛び出した単語に精神を思い切り殴られたような衝撃を受けた。軽い目眩を覚えつつも話しを飲み込もうと思考を整理する。
使用人が主人に、夜の、奉仕……?
ノエルの口ぶりからして決して少なくない出来事らしい。
全く想像もしていなかった。世間では、使用人に対して夜の奉仕をさせている―――
それは私が今まで読んできたどの文献にも小説にさえも記されていなかったことだ。塔の本はすべて使用人―――恐らく最終的にはノエルが選定していたものだ。私に不適切とされる書物は弾かれ、安全で道徳的な書物のみを閲覧していたというわけだ。
「ノエル……その夜の奉仕だけど、あなたは……」
私は唾をゆっくりと飲み込んで、彼の瞳を見つめる。彼に大切なことを伝えなければ。
「は、はい……何でしょう」
ノエルは私と視線を合わせるといつになく戸惑いの表情を浮かべ、少し頬を赤らめている。珍しく緊張しているようだ。
「夜に掃除や料理をしては駄目! 私の身の回りのお世話もよ。そんなの、いくら主人と言えども横暴だわ! ノエルは絶対に夜の奉仕なんてしないでね、わかった?」
私が奉仕―――労働に対しての意見を述べると、ノエルは目を真ん丸にして少しの沈黙の後、飛ばされるのではないかと思うほどそれはそれは大きな溜め息をついた。
何故、そんなに大きなため息を? 嫌なの?
しかし、これは主人としてしっかりと言い聞かせておくべき重要なこと。私は続けてノエルに強く意見を述べた。
「夜にまで掃除や料理で奉仕をさせるなんて、使用人も休まなくちゃ身が持たないわ! 主人なら使用人の体調にも気を配って大切にするべきだわ。うーん……でも、裸との関連性がよくわからないわ。どういう関係があるの?」
「……いえ、関係は、ございません。有り難く、夜は休ませていただきます。感謝申し上げます」
そう言ってノエルは何故か覇気を無くして台所へ向かってしまった。執事というのは固定給である、即ち労働時間が少ないほうが嬉しいはずなのだが肩を落とす理由がわからない。
そんなに夜も働きたかったのかしら?
妙に収まりの悪い会話になってしまったが、これで一応彼の水浴びを見たことは私達の間で無かったことのようになり、邪念もすっかり姿を隠してしまった。
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