14食目 誘惑はいつも努力の後に
「母上……これおいしい~……はっ!」
私は勢い良く体を起こした。寝台が今にも壊れそうな程、軋んだ音を立てた。
寝言で起きてしまったことが恥ずかしくなり、誰にも聞かれていないか辺りを見回す。当たり前だが、室内に誰もいない事を確認すると胸を撫で下ろした。
何か夢を見ていた気がするけど、どんな夢だったのか思い出せない……昔の風景のような気もするし、嬉しかった出来事のような気もする。
すべてがあやふやで、煙に巻かれたような感覚で思い出せない。
妙な引っ掛かりを感じた私は少しの間夢の内容を思い出すよう努めてみたが、一向に思い出せないので早々に諦めることにした。
「そういえばノエルが出掛けてどのくらい経つのかしら?」
窓からは未だ太陽の光が差し込んではいるものの、光の傾斜からしてしばらくすれば夕刻だろう。
「私だけ何もしないのは落ち着かないわね……片付けはもう終わらせてしまったし」
私は寝台から降りると手を顎に当てながら考え込む。唸りながら部屋をぐるぐると落ち着きなく歩き回った結果、思い付いた。
「そうだわ! 体を鍛えましょう!」
旅をするにしても、痩せるにしても、体を鍛えることは必要不可欠だ。やらないよりも断然やった方がいい。
「えーっと……足腰を鍛える運動、というのが本に書かれていたわね。確か、こう足を広げて―――」
私は搭で読んだ本の内容を思い出しながら足腰を鍛える為の体勢を取る。
両足を肩幅程度に開いて、両手は胸の前で組み、ゆっくりと腰を下ろしていく。
「くっ……結構苦しいわね……! あ、背筋を真っ直ぐに、膝はっ……うぅっ」
下半身に対して強い負荷がかかってすぐに座って休みたくなる。しかし、それを堪えて何度も腰を上下にゆっくり動かす。
い、息が上がってきたわ……!
足もお尻も私の岩の如く重い体に悲鳴をあげている。搭を出てほぼ歩いてきたせいで既に体はぼろぼろだったのに、それに追い討ちをかけている状態だ。つらくないわけがない。
「くぅぅ……もう限界!」
これが最後の一回……!
私は全神経を下半身に集中させて力を込める。筋肉が、骨が、精神が悲鳴を上げて許しを乞う。
いいえ、まだもう一回! もう一回よ!
全身の力を振り絞って踏ん張る。本当の最後の一回を終え体が上がりきった瞬間、私はドスンと大きな音を立てて床に座り込んでしまった。
「はぁはぁ……つ、疲れた……はぁ、思ったよりつらいわ……はぁ」
何回できたかしら。姿勢を意識するのと力を込めるのに必死で数えるのを忘れていたわ。
「……まぁ、限界までするのがいいわよね。とりあえず」
私は息を整えると改めて椅子に座り直した。少し汗ばんでしまったが、窓から入る風が湿った肌に心地よかった。
ぼんやりと休んでいると、玄関の方から扉を叩く音が聞こえてきた。
誰か来たみたいだけど、ノエルに出ないよう言われてるし……。でもせっかく来てくれたのに居留守をするなんて失礼よね……どうしよう。
私が悶々と考えていると再び扉を叩かれる。何度も叩くということはそれなりの用事なのだろう、私は後でノエルに怒られるのを想像しながら玄関口へ向かった。
「はい、どなたでしょう?」
言いながら扉を開けると、夕陽色の髪をした男性が不機嫌そうに立っていた。手には持ち手の付いた籠を持っている。
「ジルさん!」
もう会うことがないと思われた彼がここに来た理由は想像もできないが、私は再び会えたことに胸が踊った。
嬉しい、でもどうして来てくれたのかしら?
「……ん」
彼は視線を合わせることなく持っていた籠を私に押し付けてくる。
「え? あの、これは……?」
突き付けられた籠を思わず両手で受け取る。どうやら何かをくれるようだが言葉がないので意図が全くわからない。
しばらく沈黙をしたまま二人で玄関口に立つ。私は疑問符を頭の中で飛ばしながら、一方の彼は視線を合わせず口を硬く結んだまま。
こ、この状況は何なのかしら……。
私は可愛らしく編み込まれた籠の蓋からそっと中身を覗いてみると冷たい空気が溢れ出してきた。何かの魔法が付与されているのか籠の中は冷やされ、中にあるものを最適な保存状態にしているようだ。
そしてその冷やされた中身はというと、甘酸っぱい香りを放ち円形をした白い食べ物だった。
「これ、お菓子ですか?」
ケーキの一種のように見える。しかし今まで食べた物とは一風変わって、柔らかな生地ではないし、クリームもない。艶やかな表面は一見すると、乳製品を固めたような風貌だ。
「……余分に作ったからあんたにやる。どうせ腹減ってんだろ」
「そ、そんないつもお腹が空いてなんか―――」
言い掛けて、お腹から素晴らしい返事が聞こえてくる。それも大きめの返事なものだから言い訳のしようがなかった。
「そ、そうですね……空いてます……」
恥ずかしくて苦笑いをしながら下を向くと、上から喉の奥で圧し殺して笑う声が一瞬聞こえた。
すぐにジルを見上げると唇を結んで咳払いをしている。
良かった、笑ってくれた。
「そうだわ! ジルさんも一緒に食べ―――」
「いらねぇ」
「え!? どうして!?」
即答された私は驚いて思わず大きな声を出してしまった。
「ちっ……でかい声出すな。あんたの声は耳につくんだよ。あと、あんたの為に作ったんじゃないからな。勘違いすんなよ、じゃあな」
「あっ……」
彼は少し早口でそう言うとさっさと背を向けて歩き出してしまった。
私は言葉が胸の何処かでつっかえてしまい、彼の背中がどんどん小さくなっていくのを見ているだけだった。
どうしよう、行っちゃう!
早足で去る彼を引き留めたい焦りとこれを貰っていいのかという迷いと、彼を怒らせたまま別れてしまうのが嫌だいう感情がごちゃごちゃと混じり、何と言えばいいのか混乱していた。
―――もっと話したい。
私の中で様々な感情が沸き起こる中、一番強い感情は何なのか。
「ジルさん、ありがとう! また会いましょうね!」
私は大声で彼の背中に感謝の言葉を投げたが、彼は振り向かずそのまま早足で脇道へ歩いて行ってしまった。
「……ジルさんの家、あっちだったかしら?」
脇道の向こうは木々が生えているだけで特に何も見えなかったような気がするが、そこに用事があって急いだのかもしれない。
私は玄関の扉を閉めると、籠を中央の食卓机へ置いた。
「さて、食べましょ!」
もう食べたくて食べたくて、腹の虫が騒がしくて仕方ない。久しぶりの甘いお菓子に期待が膨らむ。ここに来るまでに食べた非常食にも甘い味の物はあったが、完全体のお菓子は搭を追い出されて以来だ。
籠の蓋を開け、中身を取り出して卓上に置いた。白いケーキと思われる固まりは、置いた僅かな衝撃でぷるぷると揺れているほど繊細だった。
「とっても美味しそう! すぐに食べたいけど……ノエルも食べるかしら? きっと、一緒に食べた方が美味しいわね」
私はすぐに食べたい気持ちを抑え、白いケーキを籠に仕舞う。が、籠に仕舞われても尚そこにある甘い誘惑は私から狙いを逸らすことはなかった。
決して、甘い香りが部屋中に充満しているわけではない。それでも、ケーキがそこにあるという事実だけで私は溢れる食欲を抑えるのに必死だった。
同じ空間にいたら、いつか誘惑に負けてしまいそう……!
私は寝室に籠ることにした。布団を被ってまるで夜を怖がる子供のように周りの空間と自分を切り離した。
「私は綺麗になって痩せる……痩せる……あれを一人で食べたらきっと太る……太りたくない……」
ノエル、早く帰ってきてー!
私は心の中で念仏のようにノエルが早く帰ることを祈り、そして白い悪魔への邪念を振り払うことに努めた。
あぁ、ジルさんからの贈り物はとても嬉しいけど……こんなつらいことになるなんて。自分の食欲が憎い。
ひたすら欲望と戦い、ノエルを待つ内に私は再び眠りの中へ誘われていった。
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